心のそこで、微かに光った。 希望というにはあまりに儚くて、 願望というにはあまりに弱くて。 現実というにはあまりに残酷で。 眼が覚めたらそこは満点の星空だった――…… まどろみの中、こつりと頭に何か固いものがぶつかった。それを皮切りに徐々に視界が冴えていった。やがて明確に冴えると、目の前が、星が見たことも無いほどはつらつと輝いて、たくさんの光の粒で押しつぶされそうに思えた。背に当たる地面がひんやりと冷たくて、ふと呼吸をする度に湿った匂い――土と草の匂い――と、辺りに漂う透明な空気の匂いがした。――そして木々がざわつく音が聞こえた。 身体を起こして、眼を瞬いた。ぼんやりする頭で辺りを見回すと、数メートル先が闇だった。そして冴えてきた頭が異変を訴え始めた。――おかしいと。だってさっきまで私は学校の渡り廊下を歩いていたんだ。外は土砂降りで、そして教育実習で受け持っていたクラスの子――春日さんと有川くんと他愛無い話をしながら歩いていたんだ。「もうすぐクリスマスだね」って。「そうしたら先生の実習が終わっちゃうね」って。冬には寒いリクルートスーツを着て、指導案のせいで徹夜で眠い頭で。…でも、確かに私はあそこにいたんだ。土砂降りのせいで気温が低くて、コンクリート製の校舎の隙間風に身を震わせて、渡り廊下は湿っぽくて。通り過ぎる人の体温を感じながら、並んで歩いたあの子達の体温を感じて、私は確かに鎌倉にいたんだ。 なのに――……っ 「此処…どこ……」 呆然と辺りを見回した。……見回しても『一寸先は闇』と意味は違えどまさにそんな状況で、自分がどこにいるのか全く検討がつかない。どこを見回しても星以外の明かりは無くて、街頭や人影や家の明かりなんかどこにも見当たらない。…けれど何処か遠くで獣が吠える声が聞こえた。ぶるりと身体が震え上がった。そして立ち上がろうとしても、足が震えて何度も何度もしりもちをついた。その度に地面の土の湿っぽさが沁みこんで行くよう。そう遠くない所でざわりと空気が揺れた。このままではいけないと叱咤して立ち上がろうとしたところで今度は腰が抜けているのに気づいた。――あまりに驚きすぎて、驚きを通り越して呆然となって恐くて。そうして暫く私は呆然と恐怖を抱いたまま地面に座り込んだ。誰かと声に出そうとしても、思うように声が出なくて。ただただ私は人形のように動く事が出来なかった。驚愕と唖然と呆然と、言い知れぬ恐怖と。「此処はどこ」。「渡り廊下はどこへいったの」。「やっと合評が終わってほっとしてたのに」。「後もう少しで終わるのに……!」。 呆然と身内の時間が止まっているようだった。けれど辺りで木々のざわつく音やそれに呼応して虫の音で賑やかで、時間が止まっていない事を証明している。――虫。と口内で呟いた。…私がいた所は土砂降りで、しかも冬に虫の音はほとんど聞こえないはずだ。けれど此処は喧しいほど虫の音が響いて、そして空気は澄んでいて、でも冬のような刺す冷たさは無かった。 「此処は…どこなの…っ!どこよっ!!」 やっと出た声は、情けないほど震えている。歯と歯の根があわない。。――全てが震える。身体も心も、全てが恐怖で震える。私は両腕を強く抱き寄せた。――暗闇に、恐怖に、自分が溶け込んで消えてしまいそうで。そしてこの非現実感が夢であるように強く眼をつぶった。眼が覚めたらあの渡り廊下に自分が居る事を信じて。 眼をつぶると嫌に虫の音が耳に響いた。聞きたくなくて頭を力いっぱい振ったけれど、一向に虫の音は止まない。そして益々手に力を込めて、強く目を瞑った。 夢よ覚めて――……っ! ……確かに時々思った。嫌な事があったり、疲れていた時。「此処ではないどこかに行ってしまいたい」と。たとえばそれが時間に縛られない、空の傾き具合とにらめっこして生活する時代に行きたいとか、学歴に縛られない就活で神経をすり減らさない時代に行きたいとか。昔の時代に行ってお姫さまの生活をしたい。綺麗な着物やたくさんの人に傅かれる優雅な生活をしたい。――ふと電車の中で、徹夜している時、嫌な事があった時。確かに私は願った。そして思った。「なぜ私はこの世界に生まれてきてしまったのだろう」と。 ふと両腕を抱きしめる力を緩めた。 「何を私は……」 ――そうだ。まだ解らないじゃないか。 ふと怯えていた心がストンともとある場所に落ち着いた。 まだ解らないじゃないか。 確かに外灯など見受けられない。確かに舗装されていない地面の上に居る。だからといってまだ、まだ解らないじゃないか。だってここが「あそこと違う世界」だという確証はないじゃないか。……ああ恐怖のせいで思考が突飛なことばかり浮かんでいる。ありもしないことばかり想像している。 そして私は足に力を込めた。今度は少しよろめきながらも立ち上がることが出来た。――まだ足は震えている。再度夜空を見上げれば星は満点に輝いていた。けれど月はなくて、きっと新月なのだろう。…ここで月明かりがあればもっと周りが見えるのになあと深々と溜息が零れた。ともかくこのままではいけない。どこか民家なりなんなり捜さなければ。そして尋ねなければ。此処はどこかと。――もちろん鎌倉だよねと。 大丈夫と私は自分を鼓舞しながら今、何をすべきかともう一度自分に問いた。 「今私がすべき事は、明かりを探すこと」 ――星以外の明かりを探そう。きっとそこには人が居る。…たとえ人が居なくても明かりさえあれば安心できる。それに万が一、獣が居たとしても明かりには、火には寄ってこないはず。 そしてまた空を見上げた。――星の位置で方向がわかるほどの知識を持っていない自分に舌打ちをした。……専門以外のことにも興味を持つべきだった。今更後悔をしても仕方が無いけど、悔やまれる。…けれど確かあっちのほうが一層木々のざわめきが騒がしかったから……私は自分の耳を頼りに、殆ど夜目の利かない中歩き始めた。――こっちのような気がする……そして自分の勘を頼って。 *** 舗装がされていない道を歩くのは辛い。でこぼこしていたり、たまにぬかるんでいたり。多分舗装されている道だったら左程苦ではないだろう道のりが、今は足がパンパンで辛い。そして同時に心臓が痛いほど鼓動を撃ちつける。――歩けど歩けど舗装された道にぶつからず、そして民家も見当たらない。光がない。 自分の中では永遠に歩いている気分だ。息が上がって、なんだかあつくなってきた。ふとスーツのボタンに手をかけた。外すと少しだけ涼しくなった気分。けれど脚がパンパンで痛むのは変わらない。 そして絶望的になってきた。 どんな田舎だろうと、暫くあるけば舗装された道と出会うはずだ。たとえ民家がなくとも外灯はあって、何らかの標識はあるはずなのに――…… やはりここは違う世界なのだろうか。 時間が経てば経つほど、独りが苦しくて、恐くて。…疲れて。涙が零れ落ちそうになる。 パンプスでなれない道を歩き続けて、脚の筋肉ががくがくと震える。――ふと、道端に眼を向ければうっすらと一本の木が浮かんで見えた。太い根が地面から盛り上がっていて、ふらふらとそこに腰掛けた。幹に背を預けて、膝を抱え込むように縮こまった。……聞こえてくるのは草木が凪ぐ音と、何処か遠くで獣が嘶き、虫の羽音が聞こえるだけだ。人の声なんか聞こえない。…気配なんてない。 「喉…渇いたなあ」 ポツリと欲を零せばむくむくと身内で不満と恐怖が膨らんでいく。 「疲れたよぉ…お腹すいたよ。疲れた……誰か」 ――誰か来てよ。 「……疲れたよ」 声を出さないと、自分が闇に消えてしまいそうだ。…孤独を紛らわしたいけれど、結局は孤独感を増すばかり。――お願い誰か。消えてしまう前に。 このときふと「うさぎは孤独だと死んでしまう」という言葉を思い出した。実際には孤独で死んだうさぎを見たことは無いけど、けれど死んでしまいたくなる気持ちは今嫌と言うほど解る。誰もいない。此処がどこかも解らない。…そんな場所に放り出されて、歩く力も微かな希望に縋る元気も。一瞬でしぼんで、闇に溶け込んでしまう。死んでしまいたくなる。 「…私、こんなに弱い人間だったかなあ……」 「あの場所」に居た時は、少なくとも強い人間だと自負していた。他人に頼る事も殆どなかったし、ある程度の問題なら一人で対処できた。…元カレにはまもり甲斐ない奴って言われるぐらい、自立心はあったし、そして負けん気が強すぎて可愛げがなかった。 「だから別れちゃったんだよね…」 抱える膝に顔をうずめた。 一人で生きていけそうだ。俺が居る意味はないって実習前にこっぴどくフられた。世間は徐々にクリスマスモードに染まりつつあった頃。…そしてカレは私とは正反対の見た目も中身も可愛らしい子と付き合い始めて…… 「…なんでこんな時にこんな事考えてるんだろ……」 もっと危機感を持たなきゃ。ここでずっと休んでいるわけにもいかないんだから、これからの事ちゃんと考えなきゃ。 「……私ひとりしか、いないんだから」 ――ああ、でもどうしようもなく瞼が重たくなってきた。 もしかして、私死ぬのかなあ。 だからこんな事思い出してるのかも。 だって本当にどうやっても落ちてくる瞼の重さに逆らえない。 「ああ…もういいや。疲れた」 幾ら歩いても誰も見当たらない。夜も明けない。 だったらもういい。疲れたもの。 ――今、私うさぎの気分かも。 「寂しくて死んじゃう」 ふふふと笑うと顔をうずめているから、吐息が跳ね返って頬を掠めてくすぐったかった。 ――ああ、最後の瞬間が笑っていけるなんてラッキーだ。 お父さんお母さんごめんね。 先に逝くことを許してね? でも笑いながら逝くんだから許してくれるよね。 まどろみの中また笑いが零れる。 ――もう、ダメだ…… その時、まどろみの中で微かに物音が聞こえた。頭がぼうとしてあまり廻らないけど、でもそれは今までに聞いたことが無い音だった。――おそらく。草木が凪ぐ音でもなく、獣が吠える音でもなく、虫の羽音でもなく。 それは地を轟かす音で、そして嘶きだった。 ――獣が駆けて着てるのかな。 ……私、食べられちゃうのかな。 噛まれると痛いよね。…そしたらその前に眠ってしまいたい。 そんな事をぼんやりと思っていると、どんどんとその地響きにも似た音が近づいてきた。それも一頭二頭という訳ではなさそうだ。――群れで来てしまったのかな。 私なんか食べても美味しくないぞ。 また笑いが零れた。――ああどっちみち逝くのだ。もうさっさとしてくれ。 自嘲的な笑みが零れると、ふとその地響きが、そうまるでどこかで聞いた事がある音だという事に気づいた。その瞬間眠気は去って、音のする方を勢いよく振り返った。 その光景は、明かりでぼんやりと浮かびながら近づいてきた。 やがてそれは馬だと認識出来るほど近づいてきた。期待を込めて、残っている体力を総動員して立ち上がった。立ち上がった瞬間ふらついて危うく倒れこむ所だったけれど、とっさに木に手をかけて寸前のところで留まった。その光景が見えたのだろうか、馬にまたがっている人が「大事ないですか」と叫んできた。「大丈夫です」と叫びたくても、喉からは息が零れるだけで声はあまりでなかった。 そして先頭を切って近づいてきた人の顔がぼんやりと見え始めた。顔以外は闇に溶け込んで、まるでそこだけ浮きだっているようだ。その人は器用に片手で手綱を持ち、片手で灯り…松明をかざしていた。 その瞬間、私は絶望を覚えた。 やがて集団――馬が3頭――が私が佇む木の手前についた。先頭を切っていた人は、ひらりと軽々と馬から降りて駆け寄ってきた。あんなに疾走していたにもかかわらず、その人は左程息をあげてはいなかった。 「大事無いですか、お嬢さん」 松明に照らされたその人の顔は、白く、そして美しかった。 「ああ、本当によかった。……神子の命であなたをお迎えに参りました」 そうしてにっこりと破顔した顔は造形美で、 そして私はやはりと胸が痛んだ。 その人は優雅な手つきで「お手を」と手を差し出してきた。後ろに控えていた人たちも安堵したようでにっこりと微笑んでいた。どの顔も松明に照らされて、そんな明かりの中でも充分に美しいのだと認識出来るほどで。 みんな着ているものは現代のものではなく、 何より馬で駆けつけた事が、確信になって。 そして私はその差し出された手を取る事もできず、世界が傾き暗転していくのを感じた。 |