受話器越しのくちづけ









そっと口付けたのは、無機質な携帯電話だった。
彼の優しくて温かな声を聞かせてくれた、電話の冷たい硬い感触だった。
――ふっと口元に温かな液体が流れ込んだ。涙だ。

…ねぇ、克朗ちゃん。

私とあなたは、いつどこで、繋いでいた手を離してしまったのだろう…?







私には空っぽな容器しか持っていない。
甘かったコンペイトウはいつのまにか無くなってしまったし、それは誰かに取られてしまったせいなのかもしれない。――こんな卑小な私に、叶えられる夢なんて、片手に乗るぐらいしかないのだろう。

小さかった頃なりたかった、お姫様、花屋さん、ケーキ屋さん。その他諸々の夢を叶える事はできないのを私はわかっている。 この上ない高貴な身の上ではないし、才能やセンスがあるわけでもない。15歳の私にあるものは、代わり映えの無い日常と、受験戦争に勝たなければいけないというプレッシャーぐらいだ。――とてもとてもつまらないカスの様。

はとても我慢強い優しい子だよ」

そう言って彼は私の頭を撫でてくれた。
――それは、飼っていた犬が病気で死んだ時の事だった。

生来引っ込み思案の私にできた初めての友達だった。カレは私を嫌ったりはしなかった。時々仕様も無いイタズラをしてみんなを困らせたりはしたけれど、くるくると楽しそうに家中を遊びまわっていた。


家に帰ると、嬉しそうに尻尾を振って出迎えてくれた。
寂しい時、ぎゅっと抱きしめると心配そうにクゥンと鳴いて顔をなめた。
ふわふわのぬくもりと、あたたかな匂い。


カレは12年と8ヶ月。私の友達でいてくれた。否、友達以上の存在だった。
カレがガンに侵されていると知った時、あまりのショックに涙もでなかった。…私の目から涙がこぼれたのは、カレが息を引き取った時だった。

…」

彼は静かに私の肩を抱き寄せた。
苦しくて辛くて…私は呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになった。

「かつ…ろちゃん…!」
「…頑張ったな、

それはちょうど去年の夏。まるで、彼が帰ってくるのを待ったかのように、カレは息を引き取った。病魔に侵されていたとは思えぬ、安らかな寝顔だった。
私は震える手で、生前、カレが大好きだったボールをカレの頬にそっと当ててみた。コツンと骨の感触を感じた。

…」
「……好きだったの。こんなボロボロのボールが、大好きで…いつも、いつも追いかけてた……」

握り締めたボールはカレが何年も噛み締めていたからボールの表面が毛羽立っていて、汚れていた。このボールを噛み締める時、カレは尻尾を振って嬉しそうだった。

「こ、んな、ただ眠ってる様な顔して…すぐにでも、目を覚ましそうな顔をして…!」

私はくるりと向きを変えて、彼を見上げた。視界はぼやけて、彼の顔がぼやけて滲んでいたけれど、すごく辛そうなのはすぐにでもわかった。――私同様、彼はカレを愛していてくれたのだ。
幼い頃、よく3人で走り回って遊んだ。夏の痛いくらい暑い日も、冬の刺す様な寒い日も。私達3人は、共通の時間を過ごして成長していった。…そしてカレだけが、早く老いを迎え、戻る事の無い旅路についた。――真っ青な空にそれは大きな入道雲が映えた、そんな日の事だった。

はとても我慢強い優しい子だよ」

そう言って彼は私の頭を優しく撫でた。
彼の目の端にキラリと光る物を感じて、私はもう涙を止める事が出来なくなった。

ちっぽけな私に、大きな彼は、温かな言葉をくれた。

誰かに褒められてきたことなど、なかった。“褒められる”という行為は、私には無縁のものだった。だから、 初めて私の存在を認めてくれたように思えた。
そしてこの時、私は彼に恋をしているのだと、自覚した。

――それが、こんなにも悲しい出来事の時だったけれど。







「ね、克朗ちゃん」
『何だ、?』
「…今日、命日って…覚えてる?」
『…そうだな、もう1年経ったんだな…』

電話越しの彼の声は、くすぐったい位優しくて、胸にジンと響いた。

…平気か?今から家に行こうか?』
「ううん、平気。それよりも、電話で克朗ちゃんと喋りたい」

この泣き腫らした顔を見られたくないから……
それは、私に出来る精一杯の強がり。

「今日、満月だね…」

部屋の明かりをつける事もせず、カーテンを開けっ放しの窓から、眩しいぐらいに満月は顔を覗かせている。 こんなに、情けなるぐらい泣き腫らした顔を知っているのは、私と、この満月だけ。

『ああ、綺麗だな…』

きっと、カレはあの星空の中を楽しげに駆け巡っているのではないだろうか……

「ねぇ、克朗ちゃん…」
『ん?何だ?』
「…ううん、ただ呼んだだけ」
『そうか?』
「うん。…なんだか眠たくなってきちゃった」
『そうだな、もう夜も遅いし』
「うん。電話に付き合ってくれてありがとう」

発狂するように、電話をかけたのに、彼はいつもの「どうした?」と優しくて落ち着いた声で出迎えてくれた。まるで、その声で頭を撫でられているようにさえ、思えた。

『今更何言ってるんだよ。俺達の間に遠慮なんか必要ないだろう?』
「…うん。そ、だね。ありがとう、それじゃぁ…切るね?」
『ああ、おやすみ』
「おやすみなさい…」


そして、私は通話が切れた受話器に、口づけをした。
口づけは、硬くて、涙の味がした。