バカだね。 どうしようもないほど、バカだよ。 バカはバカらしく、正直にいればいいじゃない。 正直じゃないバカは救いようのない愚か者なんだよ。 * 涙が頬を伝う。 熱くて痛くて心が悲鳴をあげる。そんな中、頭は冷静に心に問う。 ――何に対して泣いているの? 自分の不甲斐なさに泣いているの?それとも叶わなかった恋心の終わりに泣いているの? それとも、 本当にあの人の事、好きだったのかわからなくて泣いているの? 平々凡々と生きてきた私の恋が終焉をむかえた。そのクライマックスはこの私に相応しい地味なものだった。その人にこの想いが伝わる事も知られる事も無く、ただひっそりと私の身内の中で、砕けて散った。その破片が涙…なのだろうか?そうであるのなら、流れる涙の熱さは、あの人への想いの強さだったのだろうか?こんなに熱い想いであの人の事を目で追っていたのだろうか。――ああけれど、もう、それは過去の事。 とめどなく流れる想いの破片をもう集める事はできない。それぐらい私は涙を流した。何に対して泣いているのかわからなくなるほど流れて、熱くて、苦しくて。世の中は不公平だと嘆いたところで報われるわけも無く、一つ心が砕けていくのを嗚咽を噛み締めながら感じた。 何も知らなかった昨日に戻りたい。今日という日がなんて憎いのだろう。今日が憎いなら明日はもっと憎い。ひとり遊びをするあのひっそりとした幸福の時間は戻らない。独り善がりで、だから遣る瀬無くて、報われなくて。それでも今日に比べて昨日の方が断然幸せだった。――いつかこんな形で終わるとわかっていたけど、その終わりを知らずに済んだ昨日は幸せだった。ただ掌で球を転がして遊ぶ風に、この想いを噛み締めていればよかった。 何も生み出す事も無い空想の世界で、私は遊んでいればよかった。 ――傷つく事はなかったから…… 私は床に力なく蹲った。心の破片が、痛くて、立つのも辛かった。 あんなに嫌だった“傷つく”という事が、起きてしまった。――ああ、どうして血が流れないんだろう。砕けた心の破片が突き刺さって痛いのに。ねえどうして、血が流れないの? 血が流れない傷の方が痛いのに。 どうして、 時間は止まってくれないんだろう――……っ * 嫌だとごねても時間は進む。 泣き腫らした目を開くと、外は明るかった。気だるいからだを起こして携帯で時間を確認すると午後3時を少しばかり過ぎていた。寝すぎのせいなのか、それとも泣きすぎたのか。身体がクラクラとして重い。喉もカラカラで、何もする気が起きない。 家に篭りたいと願っても、そうは出来ない。これも大人への一歩なのだろうか。なぜ今日提出なのだろうか。私は教授に理不尽な怒りを覚えた。――今日の16時から17時までの間にレポートを提出しなければ進級に関わる。それは光化学スモッグ注意報が出たり雷雨に見舞われても、不変の真理の如く目の前に突きつけられた現実。普段はぼんやりとした学生生活を送っているのに、テスト期間になると途端に慌しくなる。テストの量やレポートの量に一喜一憂して、早く終わらないかなと始まっても居ないのに終わる事をただただ願うばかり。バイト先のチーフに頭を下げてテスト期間のシフトを休みにしてもらって、そして夏休みは泣きたくなるほどバイトまみれになる。――そうやって去年も一昨年も過ごしてきた。テスト最終日に友達と打ち上げの飲み会を開いて、そのまま誰かの家で朝を迎える。そして夏休みを迎えて、バイト漬けの生活が始まる。遊びもサークルもそこそこに。ただ何の目的も持たずに、流されるまま2ヶ月近くの休みを過ごす。 ……今までそうだったじゃない。 教務課までの道のりを足早に進む。誰にも声をかけられたくなくて、俯きながら提出ボックスまで急ぐ。カツカツと無様なヒールの音が響く。横目で窺えば何人か知り合いが居た。だけど今は話す気分じゃない。 ――顔を見られたくない。胸のクラッチバックを強く抱く。――あの人が持っていたクラッチバックが黒だった。ただそれだけの理由で、私も黒のクラッチバックを購入した。これ見よがしに校名の入ったクラッチバックが欲しかったわけでない。ただあの人と同じものが欲しかった、それだけだ。そうやって懐古趣味の様にしか、彼を愛せない。正々堂々と向き合える強さが、ない。 ようやく提出ボックスの付近にたどり着くとそこは同学年と思われる人だかりが出来ていた。現在16時半過ぎ。急がなくても提出できるだろうけど、如何せんこの無様な顔だ。早くこの場から立ち去りたい。 起き上がってから何かをする気力なんて湧かったけど、レポート一つのために進級を反故にするわけにもいかず、急いでシャワーを浴び、適当に髪を乾かして、普段より気持ち多くファンデを塗りたくり、コンタクトではなくてメガネをかけて家を飛び出した。 きっと半ば走っていたに近い状況だから髪はバサバサだろうし、折角塗りたくったファンデも汗で落ちかけているだろう。――ああ悲劇。私は深く溜息をついた。それから人ごみをかいくぐり、提出ボックスにレポートを投げ入れた。クラッチバックの中は色んなプリントや資料でぐちゃぐちゃで、レポートを見つけ出すのに手こずった。また戦場のような人ごみを掻き分けてそこから抜け出た時、安堵の溜息が出た。レポートも提出できた。また安堵の溜息がこぼれた。たぶん進級は大丈夫だろう。…前期に進級に関わる授業があること自体おかしいけれど、幾ら自由な大学生とはいえ、やはり学校に縛られている。こうしてレポート一つで踊らされるとつくづく痛感させられる。 そうして、ふと私はクラッチバックを必要以上に強く握り締めていた。あの人ごみの中手放さないように力を込めていたせいか、黒のエナメル地のクラッチバックには大量の力強い指紋が残っている。それを見て、ふと涙が零れそうになった。レポートを提出できて安堵したせいか、保っていたものが揺らぐ。それは容易く、懸命に堪えていたものが些細な事で揺らいでしまう。――知りたくなんかなかったのに…っ! 繋がりを求めてドギマギ購入したものが、今は“繋がりがある”と思うだけで、辛くなる。こんなに後生大切に抱いて惨めな気分。莫迦だな自分。 公衆の面前で泣くわけにもいかず、目を強く瞑って、深く呼吸を繰り返した。――泣くのも時間の問題だ。急いで帰ろうと駆けるようにその場から立ち去った。 建物から一歩出れば、むっとした熱気に取り囲まれた。太陽で温められたアスファルトの熱さが足元からじわりと侵食していくようだ。――ああだから夏は嫌いだ。折角お化粧しても暑さのせいで汗で崩れてしまうし、べっとりと服も汗の犠牲になる。それに満員の電車やバスで不可抗力で人と触れてしまうと、じんわり汗の嫌な感触がする。その時、改めて他人の汗ってこんなに嫌で汚いものなんだと鳥肌が立つ。 ……だけど。 熱気のせいでめがねが曇る。滴った汗もあって視界が濁る。かばんからハンカチを取り出しメガネをふく。そして溜息と共にメガネをかけるその時、声をかけられた。 「おぉい」 それは鷹揚に、そして私の核を抉る声。 本人はそんな事はつゆ知らず、にこりと邪気無く手を振る。数メートル先のアスファルトも同じぐらい熱いはずなのに、にこりと微笑む彼の姿は清々しい。段々と駆け寄ってくる彼の額には汗が滲んでいるのが見えるけれど、それでも暑苦しさを感じさせないのは一種の才能というべきか、フェロモンというべきか。 ――彼の汗は嫌じゃない。 他人の汗は汚らしく思えるのに、彼の汗は不潔に思えない。むしろ愛しくさえ思えてしまう。そういう風に思うのは私が彼の事を盲目的に想っているから、なのだろうか。 「あれ、今回はテスト少ないって言ってなかったか?」 挨拶もそこそこに彼は私が学校にいる事が不思議でならないと疑問をぶつける。ポロシャツにチノパン。長身の為か彼は何を着ても様になる。例えばこんなにラフな格好をしていても。そして小脇に抱えられたクラッチバックに自然と目が行く。……同じものだけど、違う。違うけれど、同じ。 「…レポート提出が今日だったから」 震えそうになる声をぐっと堪えて、精一杯自我を保つ。 …あいたくて、でも一番あいたくない人にあってしまった。こんなに広い敷地の中で、どうしてこんなにタイミングよくあってしまうんだろう。運がいいのか悪いのか、やはり昨日より今日と益々憎さが増してくる。 ――その憎さの矛先が、彼なのか自分なのか、今一わからないけれど。 「そうか…テストもないのに学校に来るなんて大変だな」 「うん」 居た堪れなくて、早くこの会話が終わるようにと必要以上に端的に言葉を切った。じわりと足元から熱さと共に、悲しみや憎しみが侵食してくる。…ああだからこれ以上話せない。言葉一つひとつ零すたびに、好きだとか憎いだとか言ってしまいそうだ。 「?」 「うん、ごめん。わたし、急いでるから」 「ああ悪い、用事か?」 …ホントは悪いなんて思っていないくせに。苛立ちを覚えながらバイトだと呟く。勿論バイトなんて入っていないけど。 「……明日、国憲のテストなのに?」 「う、ん…人が足りないみたいで、仕方なく」 国憲は前期のテストの中で一番の山場だ。今日提出したレポートの授業と同様に3年次までに単位を取らないと4年に進級できない。一応2年次から授業は取れるけど、如何せん難しいと有名な国憲。毎年テストの内容が変わって学生の間で出回る過去問もほとんど意味を成さない。テストは持ち込みは可だが、問題数が制限時間内では到底終わらせられないと先輩から聞く。“ふるい”とも言うべき科目らしい。 「入っても、そんなに長時間じゃないし、大丈夫」 「寝不足で目が腫れてるみたいだけど、平気なのか?」 ひやりと心臓が止まりそうになった。あからさまに肩を強張らせると、彼は溜息をついた。 「…無理はよくないぞ。進級できなかったら元も子もないんだからな」 泣き腫らした目をどうやら彼は貫徹のせいで腫れていると思っているみたいだ。…その方がずっとましだ。まさか『あなたのことで泣いてました』なんて知られるより、断然ましだ。恥ずかしい思いも、ぎこちなくなる事もない。このまま友達として表面上の友情を育めばいい。…私は彼のこと友達とは思えない。だから表面上。薄氷の上を滑るような危うい友情で繋がればいい。 「し、渋沢くんもサッカーばっかにかまけてたら進級できなくなるよ。恥ずかしいよ、“日本の守護神進級のゴール守れず”とか何とか。スポーツ紙に載っちゃうかもね……」 そう言うと彼は自分の名前の通り朗らかに笑った。 「それは確かに大変だ」 目の前が眩しかった。悲しいぐらい彼だけ浮き彫りに、周りが光でぼやける。それは恋をしたという欲目のレンズのせいなのか、映る彼の全てが好ましく写る。それこそさっき言った汗ですら。胸が引き裂かれそうなほど、いとしい…… 「ごめん…もう行かなきゃ」 これ以上彼の側にいるのは辛すぎる。 ――涙がこみ上げる。 「そうか、バイト頑張れよ」 そして彼は笑った。 私の気持ちなんか知らずに。 * 溜息が長々とこぼれる。 昨日ほとんど眠れて居ないし、勉強も手につかなかった。…ああどうしよう国憲。落しちゃうのかなぁ。進級できないのかなぁ。 授業で配布されたプリントやノート、それから国憲の先生著の本やら。かき集めて眺めてはいるものの中々頭に入らない。むしろ頭から飛んでいってる様さえ思える。…終わったな。 また溜息がこぼれた。 「よお、どうだ?」 振り向けばまた憎らしいほど輝いて見える彼が居た。 「…終わった」 「はは、早いな」 彼はくすくすと可笑しそうに、隣に腰掛ける。国憲のテストは4限からだ。でも国憲のテスト会場である大講義室は2限から空いていて、ポツポツと緊迫した面持ちの生徒が入り込む。 ――進級に関わるからね。まぁ、私もそうなんだけど。 「渋沢くん、テストは?」 「今日は国憲以外ないよ」 ふぅんとさも興味ないように呟く。本当は“あなたの事なら何でも知りたい”なんて思っているけど、そんなのプライドが許さない。微塵も興味ないと伝わればいい。 「…は?」 「ないよ」 端的に言葉を切らなければ。それも鋭ければ鋭いほどいい。 伝わって欲しくないと思うのに、少しでも伝わって欲しいと矛盾した思いが交錯する。 ――好きで好きで、憎いんだよ。 「今日以外でテストは?」 「文化人類学ぐらい」 「それじゃあ、明日か?」 「うん、そう」 「……テスト期間中あんまりを見てないな」 「レポートばっかだし」 「…それでも同じ講義取ってただろ?」 「ギリギリ駆け込んでるから」 これは本当だ。夜遅くまで勉強して、そしてギリギリまで寝て、ギリギリに教室に駆け込む。そんなスタイルをテスト期間中ずっと続けていた。この国憲が例外だ。 「機嫌、悪いのか?」 「別に」 「……俺、何かしたか?」 「別に」 目線も合わさず、ペラリとプリントをめくると、彼は深く溜息をついた。 …ああそうだ。そう伝わればいい。 「…本当に俺、何かしたか?」 「だから別に」 「だったら…何でそんなに機嫌が悪いんだ?」 「別に、しつこいよ」 「……ほら、機嫌悪いじゃないか」 彼の呟きが、2限終了のチャイムに掻き消される。2限が終われば昼休みだ。私はカバンを取り立ち上がった。 「どこ、行くんだ?」 「生協」 「…学食じゃないんだ?」 「時間、ない」 また彼は溜息をついて、そして俺も行くと言って立ち上がった。 一緒に、という事が嬉しいような悲しいような。複雑な気分になる。 生協に行けば、昼時とあって生徒でごった返していた。人の多さに辟易しながら人ごみをすり抜けていく。そうして渋沢くんと離れ離れになった。ほっと安堵する気持ちもこみ上げたけど、どこか温もりを失って寂しくも感じた。……ずっとさっきから相反する想いが交錯する。嬉しいのに悲しくて、楽しいのに面白くない。腹が立ってでもやっぱり嬉しくて。 ずっとこんな気持ちを引きずるのだろうか――…… 人ごみに溜息がそっと紛れた。 会計を済ませて出口に向かうと、彼は居た。 長身のせいなのか、目立つ事この上ない。通り過ぎる幾人の目線も臆ともせずただぼんやりとどこかに視線を向けていた。そして私が近づくと、茫洋としていた目がつと現実に戻り、微笑んだ。 「何買ったんだ?」 「お茶」 「と?」 「……アイス」 「それだけか?」 彼の言葉は聞き流し、溶けると封を開けた。口に含むと甘さと冷たさで口内がひやりと、痛む。やっぱりアイスバーは痛むなとぼんやりしゃぶった。 「…そんな食生活ばっかしてるから、つくべき所につかないんだよ」 「うっさいハゲ」 爽やかな顔してなんて失礼な事言うんだ。というか、今までどこ見てたんだ。 …その爽やかさは最早卑猥だ、渋沢克朗。 「…あれだね、彼女に似たね」 こんな短時間で似てしまうのか。人間の適応性とは末恐ろしい。そうだったら長年つれそう夫婦は一心同体というのだろうか。 「儚げな美少女だけど、見た目に反して凄まじいからねあの子」 本当にあの子は美少女という面を被ったおやじだ。笑って聞き流すのが難しいほど、発言が核ミサイル級。一々エロに繋げる、ある意味天才だ。…天災というべきか。 「ま、発言は卑猥だけど…いい子だよね」 少々中身が難でも、何といったって美少女だし、エロさを除けば性格もいい。二物を与えられたというのはこういう人間なのかとカルチャーショックを受けたぐらい、素敵な子だ。 …自分の存在が悲しくなるまでに。 「…そういえば最近見てないけど、元気なの?」 ああ胸も胃もムカムカする。アイスで胃もたれ…な訳ないか。 あの子と自分を何度比べた事か。比べるたびに自分の小ささが浮き彫りになって、益々自分の事が嫌いになっていく。 「さぁ…元気だと思うよ」 さも興味ないといった風情に、私は度肝を抜かれた。自分の不憫さとか失恋の痛みとか全部吹っ飛ぶほど。 「“だと思うよ”?!ちょっと、付き合ったばっかで何言ってるの?」 気づけば大講義室前まで着いていて、彼はそのドアを開けて進むように促す。中は昼食をとるために、さっきより人数が増えていたけれど、半分以上が空席だった。 「お互い忙しいし、それに付き合う前から頻繁にあってなかったから、そんな必要も無いし」 …おいこら待て。何、都合のいい事言ってんだ。 しかもおい、何機嫌よさげに生協の弁当つっついてんだよ。 「あの子は…それで良いって言ってるの?」 「…ん?まぁ、友達と遊びたいって言ってるから、不満はないんじゃないか?」 あのエロさと美少女さで、彼女の周りには盛りのついた野郎共がうろついているというのに。何でそんなに余裕で居られるの!しかも付き合いたてって楽しくって仕方が無い時期じゃない……っ。 「…何か、変、だよ」 「ん?」 「…私だったら…こうやってお昼時間とか、些細な時間でもいいからあいたいと思うのに」 「それはの価値観だろ」 そうだけどと口ごもる。確かにそれは私の価値観だ。四六時中一緒に居たいと思わないけれど、けど忙しい彼氏を持ったなら時間が許す限り一緒に居たいと思うのは、私だけ? …違う価値観に触れて私は何も言う事は出来ず、ただ無闇にペットボトルを両の掌で転がした。 「でも確かに、付き合ってるとは言えないのかもな」 唐突に発せられた言葉に、私の思考回路はその言葉を理解するまでに若干時間がかかった。瞬きを数回、マジマジと彼の顔を窺うと、彼はにこりと微笑み返した。 「…でも、好きなんでしょ?」 声が震える。 ――さらりと何言うんだ、渋沢克朗。それは結構、重大発言なんだから。 「ああ、好きだよ」 「だったら…なんで、付き合ってるとは言えないって……」 「の事も、同じぐらい、好きだよ?」 ……なんで疑問系なんだよ。なんで、そんなに試すような目をするんだよ。っていうか人の質問に答えなさいよ。信じられないものを見る思いで、彼の顔を窺うと、彼の視線はひやりとするほど狡猾な輝きを秘めていた。…ああ、私そんなあんた知らない!いつも平和ぼけしてて、でも試合になると別人のようにかっこよくなるあんたしか知らない。そんな狩るような鋭い目のあんたなんか知らない…っ! 「な…に、言ってんのよ……」 惨めなほど声が震える。 「そんなシャレ、冗談にもならないよ」 「冗談じゃない…って言ったら?」 「…エイプリルフールはとっくに過ぎましたっ!」 彼はくつくつと笑い声をあげる。 ……誰、この人? 目の前にいる男が、全く知らない人間に思えて、鳥肌が立つ。 「わたし、あんたのこと、すきじゃない」 「ん、そっか。残念だな」 残念だなんて思ってないくせに。その声にからかう響きが含まれている。 私は猛烈に腹が立って、そして涙がこみ上げてきた。 …なんでこんな人を好きになってしまったのだろう。あんなにバカみたいに流した涙が無駄に思えてきた。 悔しくて悲しくて、腹が立って。そんな思いが涙となって零れ落ちそうになる。ああ、こんな奴の前で涙を流すなんていやだ。つい数分前、恋をしていた男がこんな奴だったとは……っ! 「…ん、元気出たみたいだな」 狡猾な鋭い光はどこかに消え去り、彼特有のぼんやりと平和ぼけした顔で微笑んだ。 「…はぁっ?」 「いや、がしけった面してるから、ちょっとからかいたくなったんだよ」 そう言って彼はその大きな手でがしがしと私の頭を撫でた。 「元気があって何より。元気がないと怒れないしな、ま、ちょっと冗談キツかったな」 ポカンと呆然としていると、彼は照れた笑いを浮かべた。 「昨日あった時から元気なかったし、今日は機嫌悪いし。何があったのかわからないけど、は百面相してたほうがらしいぞ」 「ひゃ…百面相?」 「ああ、いつも表情がころころ変わって面白い」 「面白いっ?!」 そんな感じにと言って彼は笑った。 ちょっとショックと言うか、何というか。 「よし、元気になった所で勉強だな!」 ただ呆然とこの人には敵わないと思った。 彼はいつの間にか弁当を食べ終わっていて、それを端に寄せてノートを開いた。ノートは几帳面に取られていて、その人の性格がよく出ていた。 「いつまでも変な顔してないで勉強、勉強。進級できないぞ?」 そして彼は爽やかに笑った。 「……渋沢くんもスポーツ紙賑わせないようにねっ!」 とどのつまり、この人は、爽やかで優しくて…卑猥で。 私にはもったいない人で。 だから私じゃない人と結ばれたんだろう。 しばらくしてシャーペンがノートの上を滑る音が唐突に止まる。そして彼は頭を掻いて、恥ずかしそうに呟いた。…それはほんとうに小さな呟きで逃してしまいそうだったけど、私の耳は彼の言葉を拾い落とさないように出来ているために、しっかりと聞き取った。 「……同じぐらい好きってのは嘘で…ごめんな」 零した涙も、壊れた想いも。 明日が憎いと、あなたが憎いと歪ませた想いも。 きっと、あしたのあなたを好きになるためにあったのだろう。 「…さり気なく惚気てんじゃねぇよド助平野郎」 「口…悪くなってないか、…」 唯、今は切ない想いで胸が痛むけれど。 やっぱりバカはバカらしく居ようと思う。 title/LOVEBIRD |