そんな彼の事情 私は、この夏に完成した自分の作品を眺めた。 夏休み中の部活動期間では、完成しなくて、とうとう重たいキャンパスを半ば引きずるように持ち帰った。 持ち帰ったのはいいものの、油絵の具の強烈な臭いを放ちながら、作品を制作するのは、私にとっても家族にとっても、決していいものではなかった。晴れた日は、この暑い中ベランダで製作して、雨の日は仕方ないから脱衣所でキャンパスに向かった。…毎回毎回、母親のお小言を貰う羽目になったけれど、それでも私は製作をやめる訳にはいかなかった。 だって、今日の午後、彼は帰ってしまう。 その前に、彼に見せたかった。 私に残された唯一のコンペイトウ。 それを彼に見せたかった。 * * * 私は、油絵の具で汚れたTシャツのまま、彼の家へと向かった。現在11時半。まだ、彼は家を出ていないはずだ。ドキドキとチャイムを押す指も、汚れていた。ピンポーンとチャイムの音が響いたかと思うと、タイミングよく彼が、ドアを開いた。 「どうした?そんなに汚れて…」 いらっしゃいとも、こんにちはとも、挨拶抜きで彼が言った。とても驚いた様子で、自分のTシャツでゴシゴシと私の頬を拭ってくれた。…どうやら、顔も油絵の具の餌食になっていたようだ。 「いい、いいよ!後で顔を洗うから。それより、完成したの!」 「完成した…って、絵のことか?」 「そう。さっき出来たの!だから、克朗ちゃんに一番最初に見てもらいたくて…」 だから、こんな汚い姿のまま飛び出してきた。 唯一、私のことを理解してくれるこの人に、一番最初に見てもらいたくて。形振りなんて、考えていられなかった。ただ、見てもらいたい!それしか頭に浮かばなかった。 早く、早くとせがむ様に彼の腕をひっぱると、彼は分かったからと、呆れたようについて来た。 それは、夢で見た世界。 明けの明星、宵の明星が同時に顔を出す、世界。 こうのとりが、温かな母の愛情を運び、動物達が楽しげに戯れる。 もちろんその中に、カレがいて、彼もいた。 そして、その世界は優しく、 弱い子も、出来ない子も、意地っ張りな子も、それぞれ等しく優しい世界だった。 私はその夢から覚めたら、泣いていた。目の両際から、涙がスゥと流れるように溢れていた。 きっと夢で見た世界は、私が望んでいる世界。カレが生き、いつも他人と比べたがる母親が、私のことをキチンと理解してくれて、そして彼が傍に居てくれる。 そんな世界を私は、望んでいたのだ。 「すご…いな……」 彼は、ゆっくりと囁くかの様に、呟いた。 彼と居るのは、うちの脱衣所。そんな変哲も無い場所で、2人して絵に向かい突っ立っている。はたから見れば異様な光景だけれど、当事者からすれば凄く真剣な事だ。 「これを…コンクールに出すのか?」 彼は信じられないと言わんばかりに、振り返ってきた。 私が所属する美術部は、引退する3年生の作品を秋のコンクールに出すのが、伝統だ。3年生は今までの集大成…とは大仰だけど、自分が出来る精一杯をキャンバスに叩きつける。結果云々が目的ではなくて、コンクールに出す事が目的なのだ。 「そう…だけど、変かな…?」 想像していた彼の反応とは違うもので、思わずドキマギしてしまった。 夢で見た世界を絵にしたいと思ったけれど、それはとても難しい事だった。そしてしばらく、私は具体的にどういう風に、何を描きたいのかと考え悩み、そして下絵に入ったのが夏休み直前の事だった。 そしてでき上がったのが、サッカーボールを抱え込むように眠る、カレの姿。 まだ、カレが生きていてそして元気だった頃、カレが彼の使い古したサッカーボールを譲り受けて、喜んで遊び回っているうちに、疲れてそのまま眠り込んだ事があった。それを母親が写真に残している事を思い出して、それを参考にしながら、少し手を加えた。 今は亡きカレへの変わらぬ愛情。そしてカレがボールを抱え眠る姿を、母が子を愛しむ姿になぞらえ、そしてサッカーボールに私の気持ちを表現…したつもりだ。 「やっぱり…おかしいかな?」 私はおそるおそる声をかけた。一度振り返ったっきり彼は一言も喋らず、絵に向かったままだ。 暫くして、彼がゆっくりと息を吐き出すのが聞こえた。 「克朗ちゃん?」 「すごいな…」 そう言って、ゆっくりと振り返ってきた。その顔は微笑んでいるものの、目が潤んでいた。 「…絵を見て、感動したって初めてだ…」 「えっ?」 「凄く温かくて、優しいな…」 「克ろ…ちゃん」 彼は、温かな手で私の頭を撫でた。いつもとは違う、優しい動きだった。 「は、この絵に描かれているものが欲しいんだろ?」 「…っ!」 ツンと鼻の奥が、弾けた。それは、涙が流れる合図だった。 「…おじさんやおばさんにも、見せてあげろ?そうしたら、2人ともの事わかってくれるさ」 父親も母親も、基本的に私のことを愛してくれているのはわかっていた。けれど、どこか何かが違うと感じるのだろうか、両親とも私のことを認めてはくれなかった。 勉強が出来ない。 運動も出来ない。 友達も出来ない。 世間一般の尺度で測るなら、私は出来ない子という風になるのだろう。 相手にするのは、動物や本や絵。そして懐くのは、幼馴染の彼ばかり。 「本当は、すごく心配だったんだ。を置いて寮生活をするのが…」 私は言葉に出来ず、ただただ彼にしがみ付いた。そうしたら彼は大きな腕で抱きしめてくれた。 「他人と関わりあうのが苦手で、そのくせ傷つきやすくて…繊細な子なんだ。そう思ったから、守ってやりたかった」 でも、と呟くと彼は抱きしめる腕の強さを少し強めた。 「でも、サッカーは諦めたくなかったんだ。諦めたくなくて武蔵森に入ったけど、しばらく自己嫌悪に駆られたよ。守ってあげなきゃって思ってた子を結果的に、突き放したのだから…」 「克朗ちゃん…」 「…久しぶりに会って、また痩せたなって思った。はストレスを感じるとすぐに体調とかに出やすいな。…だから余計に心配だった」 「でも…克朗ちゃん、彼女できたじゃない…」 「ああ、それは…」 そう言って、彼はゆっくりと離していった。 「俺も…まだよくわかっていないんだ…」 「わからない…って?」 何がわからないの?瞬きをする度に、涙がぽろぽろと零れ落ちた。 「の事を守らなきゃって思うのは、そういった類の愛情なのか…わからない」 「…その人に対する感情は?」 「正直…傍に居ると落ち着く…」 「そう…」 私は絶望的に、世界が真っ黒に覆われていくように思った。 きっと、私を守らなきゃと思うことは、絶対に彼の重荷になる。いくら彼ほど、器が大きい人間でも、いつかは重荷に思えて、うざったくなるだろう。 「克朗ちゃんは…彼女を大切にすべきだよ…」 「?」 「きっと、克朗ちゃんは正義感が強いから、私みたいな子を守ってあげなきゃって思うんだよ。きっと、正義感からくる義務感だよ…」 「それは…!」 「ね?そう言う事だよ。だっておかしいよ。私みたいな子に、異性に対する愛情なんて湧かないよ。きっと、克朗ちゃんが優しいから、守らなきゃって思うだけ」 そして私は、彼の横をすり抜けて、キャンパスを持ち上げた。 「絵の感想ありがとうね。なんだかコンクールで金賞でも貰ったみたいに言ってもらえて、ちょっと照れくさかったかな?…ほら、そろそろ出発の時間でしょ?もう行かないと、おばさん心配するよ?私もここを片付けて、少し休みたいし…」 「…それで、は独りでまた泣くのか?」 いつもの鷹揚とした優しい声音ではなく、突き刺すような低い声が背中に刺さった。 「…それは、克朗ちゃんに関係ないよ…」 「関係あるだろ!」 「関係なんかないよ!?」 私は勢いよく振り返り、彼をねめつけた。 けれど実際は、涙で視界が濁って上手く睨みつける事が出来ない。 「他の人が好きで、離れていくような人に関係ないよ!…そんな中途半端な優しさなんて貰っても、嬉しくない!逆に辛いだけだよ…!」 わなわなと口端が震え、膝も笑い出した。けれど、私は渾身の力を振り絞り、彼と対峙した。 「克朗ちゃんはそれで気が済むかもしれないけど、でも、私の気持ちはどうなるの?!好きな人に思わせぶりなことをされて、辛くないっていうの?彼女が大切だって言われて傷つかないっていうの?!」 一気に自分の気持ちを捲し上げた。言い終えると、息が切れて苦しかった。 そう、私は苦しかったんだ。だから、涙が零れて、胸に疼きを感じるんだ。 「かえ…って…帰ってよ……帰れっ!!」 私の世界から居なくなってしまうのだったら、早く出て行って。 誰からも認められなくても、彼だけに認めてもらえれば、それだけで良かった。 だけど、その彼すら居なくなってしまったら、一体私は、誰を信じればいいんだろう…? それからしばらく私は泣きじゃくった。その間、彼は何も言わずただ見守っているようだった。そして、しばらくして私が泣き納まってくると、彼は重たい口をゆっくりと開き始めた。 「うちの学校に、武蔵森の受験の一つに一芸入試があるんだ…も美術の成績はいつも満点だったよな?美術をする環境もそれなりに整っているし、考えておくのも良いんじゃないか?…コンクール入賞するといいな…それじゃ」 そう言って彼は静かにきびすを返して、去っていった。 私は脱力するように、その場に座り込んだ。そして、新たに頬を濡らす涙の存在に気づいた。 * * * それから、秋のコンクールで私は銀賞に選ばれ、学校でも近所でも有名になった。金賞に選ばれたのは、世間的にも有名な美術家のアトリエに通う、同い年の女の子だそうだ。そんな人間と、ずぶの素人が金と銀で並んでいるのだから、世の中何が起きるかわかったものじゃない。 そして今になれば、彼のとまどいも、なんとなく理解が出来るように思える。 今まで頑なに殻に閉じこもっていた私は、周りを見ようとはしていなかった。けれど、些細な出来事で世界が変わるんだと実感した。秋のコンクール以来、続けざまに2回、告白をされた。 彼らの言葉をじっくり聞いていると、かなり前から好意を持っていてくれたそうだが、どうやら私が人を寄せ付けないオーラを放っているように思えて、告白が出来なかったそうだ。 初めて告白をされた時、なんの冗談かと思って、軽くあしらおうと思った。…どうせ今、話題の人間に近づきたい物好きな人間だ、と思っていたからだ。けれど、彼の真剣な態度に、その考えをすぐに捨てた。そして、丁重にお断りをした。それは、その人の事を全くと言っていいほど知らないという事もあるし、それになにより…… 私は、久しぶりに彼宛にメールを送った。 久しぶりのメールの書き下しは、少しぎこちなくてよそよそしかったかもしれない。 けれど、私はあの時から変わったと思う。髪も伸びたし、友達も増えた。 そして、少しずつではあるけど、ゼロに近かった自信が、根拠を持って増え始めた。 少しずつ少しずつ、私のコンペイトウが増えてきた。 幼かった頃みたいに瓶いっぱいにはなれないけど、けど私の瓶の中が彩り豊かになり始めた。 だから、克朗ちゃん。 あなたに、逢いたい…… Fin |