誰かの叫びを感じた。 はっきりと鮮明に、耳に届き、脳に届く前に、途絶えた。俺の身体はその叫びを受け止める事を拒否したのだ。それはあまりに悲しい叫びだった。――と思う。そしてあまりに切羽詰っていた。 ゆっくりとスローモーションがかかったかに後方に倒れていく身体。倒れたら痛いだろうな、と回らない頭が囁く。重力に従いまぶたがおちる、それは極自然な動きだった。まぶたがおちる寸前、利き手が本能的に伸ばされた。その先を掠めたのは誰かの手で、そしてその手を掴むことなんて出来ないまま、俺の身体はおちていった。もちろん俺のこの右手も、その誰かの手から離れていった。 ――掴まなければいけないのに…… わかっていたけれど、諦めた。――ああ、まぶたがおちる。 そこから思考は停止し、そして意識も手放した。 また、誰かの悲痛な無言の叫びが聞こえた。――そんな気がした。 * ……何かが頬を掠めた。 それはあまりに不快で俺はすんと鼻を鳴らす。そうすると水気を帯びた青々しい臭いが鼻についた。それが不快で俺は頭を動かした。そうすると横向きで眠っていたために頬にちくちくと何かが刺さる。――そうしてようやく重いまぶたがあがり始めた。目覚めたばかりのぼんやりとした視界には青いものが目の前にせまっていた。段々と光に視界が馴染んでくるとそれが草である事がわかった。――ああ道理で青臭いわけだ。俺は仰向けに体勢を直し、寝転びながら伸びをした。後頭部にちくちくと草の先が刺さる。俺はもう一度伸びをしてその不快な寝床から起き上がった。一つ大きなあくびをして、目をこすった。そこは視界が届く限り草に覆われ、地平線の向こうでようやく草の緑と空の青が混じっていた。空には雲はなく、ただ夏の鮮烈な青ではないにしろ、春のあの淡い涙色の空でもない、そんな青さが広がっていた。視界を遮るものがなく、空が、大きくて圧巻という感情を通り越して、呆気にとられた。ふと風が吹き、草がさわさわとなびく。草がそよぎ、風の行く道が示された。おおよそ視界の届かない所で、風の行き先が途絶えた。――遠くにこらしていた視線を自分の身体に向けた。予想されていた傷はなく、そしてどこからも身体の痛みを感じる事はなかった。不思議な事だ。俺は両手を握ったり開いたり、身体を捩ったり、脚を上げたりした。……けれど本当にどこも痛む事はない。そして俺は立ち上がり、飛び跳ねた。どこも異常がない。 「なんで…」 俺は独りごちた。 そして脳内で思考が弾けた様にまた辺りに視線を向けた。 ――ここは、どこだ…っ そうだ、ナゼ俺は此処にいるんだ。 ――そう俺は確かにあの場所で…… ぶるりと悪寒を感じ、俺は両の手で自分を守るように腕をさすった。……そうだあの時俺は確かにあの場所にいて、そして…… そして、と脳内でその言葉を繰り返し、自分の目の前で起きた事が脳内を駆け巡った。 またぞくりと背筋を冷たいものを感じた。ああ、ああ確かに、あれは…現実だ。 逃げようが隠れようが、あれは現実だ。 現実だと頭と心に鈍い痛みを感じた。そう、現実だ。すっかり覚醒した心身はあの現実の痛みに蝕まれ始めた。――そうだ。俺はあの現実から逃避するように、まぶたを閉じ意識を失ったのだ。自己防衛、本能がそうさせた。どくどくと心臓が早鐘のごとく波打つ。あの現実がまた目に浮かんでくる。吐き気を感じ咄嗟に手で口元を覆った。その覆った手は震えていた。そしてじわりと額や頬に汗が浮かんでいる事に気づいた。視界からこびりついて離れない現実に、俺はまた意識を失いそうになった。数歩足元がふらつき、膝が笑いついには崩れ落ちた。 ――ああ、ああなぜあんな事が…… また一陣風が吹く、それにあおられ草がなびく。まるで嘲笑のようなさざめきに俺は眩暈を感じた。ここは、風にあおられる草の音以外なにも音が無かった。あっていいはずの鳥の囀りや、虫の羽音もない。草以上の大きな植物も無く、視界はなんの障害も無く地平線まで続く。俺は縋る思いで空を見上げた。――人もいない。ここは…どこだ。その空があまりに広すぎて、俺は自分という存在があまりにちっぽけで、その空が手を伸ばせば掴めそうにあるように思えて、潰されてしまいそうに思えた。 あの現実は、どこにいった……? 俺はまた違う寒気を感じた。 ここはどこだとまた独りごちる前に、はっと脳天を貫くものがあった。……けれどそれは違う。そんなところに俺がいるわけがない。孤独感や不快感を忘れ、笑いが零れた。――そんな訳が無い、そんな所にいれる人間じゃない。俺はそんな綺麗な存在じゃない、そうそんな人間じゃない。嘲笑ともいう笑いが続く。 俺に見合う所は、永久凍土の不毛の地か、業火のあの…… 考えさした所で、辺りがキンと冷たく張り詰められている様に思えた。微量な風も吹くことなく草も、俺が身動きしなければ物音を立てることはない。 キンと張り詰めた中にも、後方でぼんやりと温かい流れを感じた。俺は俯いていた顔をあげ、頭をゆっくりと後ろに動かす。ふと視界に入り込んだのは蛍のように漂う光だった。この空の下でも霞むことなく、けれど淡く光は漂う。俺はゆっくりと身体を起こした。その光は俺の目の前で舞って見せた。蛍かとも思ったけれど、その光に生命体は含まれて居なかった。そして驚いた事にその光は一つだけではなかった。無数の光は俺を取り囲むように漂う。そしてその中の一つが俺の手の中にそっと舞い落ちた。――握り締めて開いても、消えては居なく少しまろぶように舞いそしてどこかに漂っていった。俺はその光景にぼんやりと見惚れていると、その光の群れの奥から、一段と大きな光がこちらにゆっくりと向かってくるのが見えた。その光はただの光ではないようだった。ほかの光はただ淡く辺りを漂うだけなのに、その大きな光はまるで草の上を滑る様にゆっくりとこちらにむかってくるのだ。そしてその光が近づくにつれ、それは光であり、光ではないと何かが身内で訴える。 草の上の滑る様に向かってくるのは、足だった。その足にまとわりつくように衣がなびく。そして徐に視線をあげていくとその体躯が女性のものであるようだった。小さな足、身体のラインにまとわりつきなびく衣。その細い脚のラインを滑る様にあるのが丸みおびた腰で、それを強調するようにほっそりと華奢なくびれが見て取れた。俺は固唾を飲んだ。胸元はまだ少女らしさが残っており、それより上は光が幾重ものベールとなっていて顔だちが見て取ることができなかった。光に包まれたその姿はまるで動く彫刻のようで、目を見張るものがあった。そして俺は安堵した。――人が居る。胸にじんわりと温かいものを感じ、俺は緊張を解す溜息をついた。 そしてその人は俺より数歩手前で立ち止まった。 彼女を取り囲むように光はあり、つと安堵していた胸に不可解なシコリをかんじた。 けれど、と俺は安堵に身を任せその不可解さを無理矢理追い払った。…なぜ光に囲まれているんだ? 普通の人間ではありえないその光景に、やはり不可解さは拭いきれない。 逆光かと思ったけれど、ぐるりと空を見渡す限り、 ……太陽がなかった。 おかしい、背筋に電流が流れた。――ではナゼ暗闇ではないのか。見上げる空は青く、そして風に遊ばれる草も青く、視界のどこにも影はなく…… 影。 そうだ影すらもない。太陽がなければ影があるわけもないが、だけれど目の前にいる女性は燐光を漂わしている。けれどその光に照らされて出来るはずの影がなく、ぞくりと身内が震えた。 ――此処は自然に溢れているけれど、自然の成り立ちに反している。 不可解さや孤独感を拭いたくて、俺は目の前の少女――おそらく――に声をかけようとした。その時、また風が強くドコからとも無く吹きつけ、彼女を取り巻いていた光が煽られ風に乗せられた。 その瞬間 幾重の光のベールの風に隠れていた彼女の顔が見えた。 俺は思わず目を剥いた。 その少女は、いや彼女はにこりと微笑んでいて、 そして、 その顔は、あの彼女の顔だった。 風が吹きやみまた彼女の顔にベールがかかる。 俺の身内がみるみる冷えていくのを感じていった。全身が震えだし、呼吸すら忘れそうになった。 ――ああ、これは幻覚だ。…幻覚だ。 俺は強くまぶたをこすり、そう自分に言い聞かせた。あれは幻覚で、光がベールのように彼女を包んでいるわけが無い。それにあれは、彼女じゃない。そう彼女じゃない。――だって彼女はと俺は目の前の光景に細部まで見ようと目を細めた。…光がまぶしくてチカチカと目の奥が痛くなる。目を細めたはいいけれど、あまりの光の強さに細めようが細めまいが、細部なんて見ることは出来ず、ただ“彼女じゃない”と思われる彼女のぼんやりとした輪郭しか捉える事が出来なかった。 ああ違う、違う、彼女じゃない。 頭で否定しても、心臓がまるで警鐘のようにドクドクと胸を打つ。 俺は恐れ戦き、後ずさった。後ずさった先に、こつりとかかとに何かが当たる。チカチカと痛み眩む目を持ってしてもそれは拳大の石だった。俺は震える手でその石を拾い上げた。 ――そう、あれは彼女じゃない。 まるで女神のようにおっとりと微笑み、光のベールに包まれ、微動だにせず。そして後方に唐突に透き通った水晶のきざはしが続き、まるでその先は楽園は天国か。導くように俺に手を差し伸べているのは、俺が知っている“彼女”じゃない。彼女の仮面を被った誰かだ。震える手で石を強く握り締めた。嫌な汗が頬と背中を伝い、ごくりと喉が鳴る。 石の尖った先が鈍く手に食い込んだ痛みを感じた瞬間、俺は“おかしなこと”に気づいた。 あの眩むような光はいつの間にか消えていて、ぼんやりとしか輪郭を捉えられなかったのに今でははっきりと彼女を捉える事ができる。愛した柔らかな髪、笑うと出来るえくぼ。小さいといつも嘆いていた愛らしい鼻。黒曜石の瞳。柔らかな体。――恋は、愛は、人を詩人にする。俺も例外ではなく彼女を思い浮かべる時には、なぜか詩人のように細部を物語ってしまう。――またごくりと喉が鳴る。 あれは、彼女なのだろうか…… 俺の心が揺れた。 その事を得たように、彼女は口を開いた。 「さあ行きましょう、英士」 その言葉を聞いた瞬間、全身があわ立った。――否、言葉じゃない。彼女の声にだ。 目の前に佇むのは、愛する彼女。けれどその声は、体の芯が凍るように冷たく無機質だ。俺の警鐘は何度も何度も激しく胸を打つ。佇む場所は神の恩恵を受けたかに美しい場所であるにもかかわらず、目の前にいるのは、俺が愛した彼女の仮面を被った誰かだ。ぐっとせり上がるものを感じる、心臓を鷲掴みされた気分だ。絶対に違う。彼女はこんな無機質とは無縁な、温かい声をした優しい人だ。 「お前は…誰だ?」 彼女の仮面を被った誰かは、まるでその言葉を無視して俺を促す。早く、英士早く。零れ落ちる笑みとはあまりにそぐわない無機質な声を持って。早く、早く、英士。 「お前は、誰なんだっ?」 握り締めていた事を忘れていた石が、まだ鈍く手の中で刺さる。黒曜石の瞳は俺を的確に捉えそしてその澄んだ色で俺を映し出す。気づけば俺は自分自身がその瞳に映っている事を認識できるぐらいまでに近づいていた。 「一体誰なんだっ?!」 彼女は、目の前の人間は俺の怒声に怯えることなくゆっくりと瞬きをした。長いまつげがより一層その瞳の黒さを際出させるのだった。そしてふわりと花の香りがした。香りの元は間違いなく目の前の人間で、香った原因はその目の前の人間が怖じることなく俺の頬に触れてきたからだった。 「私は、私よ。英士」 この花の香りは覚えがある。ああ、でもどこで嗅いだのかは忘れたけれど俺の記憶に確かにその花の香りを覚えている。 「あなたがあなたである限り、私も私。だからあなたの知っている私よ」 無機質な声とは裏腹に頬を撫でる手が柔らかくて、衝動的にその手を握り締めた。――ああ確かにこの手は、幾度と無く繋いだあの小さな手だ。――なのにナゼ? ……こんなにも冷たいんだ――……っ やはりあれは現実だったんだ。 歯がゆさと悔しさに苛まれて俺はどうする事も出来ず、ただただ彼女の足元に崩れ落ち、嗚咽が止まらなかった……ああ、ああ、どうして――っ そっと頭上で衣擦れの音がした。彼女は膝を折り、そして俺の頭を抱えるように背をさすった。その事がより一層涙を誘い、俺は縋るように彼女に抱きついた。抱きついた彼女は記憶の中の彼女と同じく柔らかかった。 ――やはりあの彼女なのだろうか…… そうであって欲しいという願いと、そうであって欲しくないという相反する願いが交錯する。俺は益々彼女に抱きつく力を込めた。折れてしまいそうなほど細くて、柔らかくて。 そして、 あの時、現実の彼女が「5番目にすきよ」と冗談っぽく笑った、花の香水が漂う。 それは、俺が彼女に贈った、最初で最後のプレゼント。 「……」 もう間違いようがない事実。彼女の名を呼んだ時、背をさする手がぴくりと強張った。 「、どうして。どうして……」 その先は言葉に出来なかった。 どうしてと嘆いた所であの現実は変わりようがないのだから…… 俺はその花の香にしがみ付く。 「……英士」 天上から降り注ぐかの優しい声が、そっと頭を撫でた。俺は弾かれるように顔をあげた。涙で濡れた頬を彼女は優しく撫でる。見上げる彼女の表情は穏やかで、でもただ一粒涙を流していた。 その表情は俺が見た中で一番美しかった。 と俺はまた抱きついた。抱きついた彼女には体温がなかった。けれど変わりに彼女を取り囲む光が温かかった。――ごめんなさい、英士。その囁きが胸に刺さった。 「どうして……っ」 どうしてあんな事に。悔しくて歯がゆくて、腹立たしいのはどうしようも出来なかった自分で。 いだく力を更に込めた。 「人には…定められたものがあると、思うの」 彼女はそっと囁きかけた。 その声は血の気が通った温かな聞きなれた彼女の声。――彼女の身体はこんなに冷たいけれど。 「でも君は……っ!」 でも君は、あの事が定められた事だと言うのか? 俺の視線の奥にあるその疑問を感じ取ったのか、彼女は穏やかに笑う。 「私はね、幸せだったの英士。あなたに逢えて、愛し愛されて、毎日が温かくて。あの日々が私の存在すべてだったと言ってもいいの。…ううん、そう思わせて」 彼女の声にははっきりとした意志があり、否定しようとした俺の言葉をさえぎった。 「あの事もね、私は幸せだったと思いたい。幸福な人生の中で起きた、事だって」 「君は…死すら幸せだというのか……?」 「……死は確かに残された人々に悲しみを残していくものだと思うの。私が言いたい事はそうじゃなくって、私は死ぬまで幸せだったって事なの、英士。本当よ、私あの瞬間まで幸せだったの」 だから嘆かないで、自分を責めたりしないで…… 潤んだ瞳で彼女は笑う。そしてその拍子に目の淵から涙が零れ落ちた。 ――ああ、ああどうして、こんなに近くにいるのに…… 「…どうして君は死んでしまったんだ……」 あの日あの場所であの時、いなければ……答えのないもしもが俺を苛める。 「俺を…庇ったりするからっ!」 そう、あの現実の中俺は幾度と無くその言葉を繰り返した。彼女のご両親にも、友人にも、そして自分自身にも。何度も何度もその言葉を繰り返し、もう戻らない彼女を思い悲嘆に暮れた。 「ごめん、俺を庇ったばっかりに。君は、君は死んでしまった…」 ――なんて陳腐な謝罪なんだろう。心の中でもう一度彼女に会えたらああ言おうこう言おうと決めていたのに。いざ目の前に彼女が居ると、上手く言葉が見つからない。……ほとほと情けない人間だ。 「……君が居なくて辛い。明日が来ることが辛いんだ」 一分一秒と彼女の死が過去になっていく。過去になった彼女の死が風化するのが恐かった。何より恐かったのが、俺の記憶の中で彼女の姿や声が、段々と忘れていってしまう事だ。忘れたくないと思うのに、時々ぼやがかかって直ぐに思い出せないときがある。 「忘れたくないんだ、お願いだから。お願い……」 何に対してのお願いか自分でも解らないまま彼女に縋りついた。ああこの温もりのない柔らかい身体。この感触も忘れてしまうのだろうか……嫌なのに、どうして記憶はぽろぽろと零れてしまうのだろう。――愛しているのに……っ! 英士。 彼女の声がそっと頭を撫でる。 それまで黙っていた彼女が徐に口を開いた。 「此処はね、私の世界なの」 「……君の……?」 そうと頷き、彼女は辺りに視線を向ける。 どこまでも続く草むら、押しつぶされそうなほど広い空。 「…初めにここに来た時は何も無かったの。…何も無かったは間違いね、土とそしてくすぶった空があったの。そうして雨が降り、草が生えてきた。英士は知らないかもしれないけれど、この先に水溜りの様な池…湖も出来たのよ」 そう語る彼女の瞳は優しかった。その優しさにどこも責めるという色はなかった。 「…そうやって此処は成長を遂げていくの。いつかは花が咲き木が生え、動物達も生まれてくる。そして私はその中で幸せに暮らすの。花を摘み、果実を齧り、愛らしい動物達を愛でて」 「だけど此処には太陽がないよ……」 「そうね、だから此処は不完全なの」 「不完全…?」 彼女は頷き、やがてその瞳に哀しみが映る。 「…さっき、あなたが英士が涙を零すまで私は心を失っていたの」 「心…」 「そう、記憶はあっても心は凍っているみたいで、でもあなたは此処に居すぎちゃいけないと思ったの。感情ではなく理性が、そう訴えた」 此処に居てはならない。 その言葉が重く圧し掛かってくる。 「俺は…俺は、君が居るこの世界で、君とこの世界を見守りたい」 「それは、だめよ」 「なぜっ?!」 絶望が心を押し潰す。縋るように彼女の瞳を覗き込んでも彼女は穏やかにけれどはっきりと拒否した。 「どうして…っ!どうして、俺はあっちの世界に疲れたんだよ。君が居なくて苦しくて辛くて、明日も希望もちっぽけに感じるのに」 「…けれどあなたは生きている」 「生きてても死んでるのと同じだっ!」 そう叫んでから俺は悔いた。――バカだ。なんて愚かなんだ。 「…それでもあなたは生きているの、生きている限り明日は来るのよ」 彼女はゆっくりと視線を伏した。 「ごめん……」 もう彼女はあの世界で明日を迎えることは無い。それは死者にとって当たり前で、そして悲しい現実なんだ。……暫く沈黙が流れた。涼やかな場所にそぐわない重い沈黙だった。まるでその沈黙は戒めのように圧し掛かってきて、俺は罪の意識に苛まれた。 そしてその沈黙を破ったのは彼女だった。 「…あなたを庇ったのも、私の人生。庇うという事は明日が無くなるかもしれないっていうリスクを背負うの。けれど私はそうしたの。そうしたのが私の人生だった」 でもねと彼女は言葉を続ける。 「庇うという言葉は違うかなと思うの」 「…違う?」 「うん、違う」 そう彼女は晴れやかに笑った。 「守りたかったの、私は。あなたをそして私を」 「君を?」 「私はね、自分でも言うのは何だけどとっても平凡な時を過ごしたの。でも幸せだった。両親も友達もいたし、英士と出会えたし、愛し愛される喜びを分かち合えた。それだけで満足だって私はその日その日を過ごしてた。だけど英士はサッカー選手になるって夢があるでしょ?…私には明確な夢ってものを持っていなかったから、だから守りたかった。譬えそれが自己満足と言われようと、そうしたかったの。だから私はあっちで命を終えるまで幸せだった」 そうして彼女は冷たく小さな手で強く俺の手を握り締めた。 「…あなたは生きて。私は私の命を使い切った。私のことなんて背負わないで、あなたの人生を明日を生きて」 そしてねと彼女は微かに震える声で笑った。 「幸せになって。……私のこと、忘れていいから。あなたは本当に幸せになるべき人。私が死んだのはあなたのせいではなく、私が決めた事だから。だから、お願い。幸せになって」 「…」 「私はもう、あっちの世界でどうする事も出来ないから、この世界で自分の幸せを見つけていくの。だからあなたも幸せになって、ね、お願いよ?」 俺は彼女を力いっぱい抱きしめた。 ごめんと言えば彼女は傷つくに違いない。だから俺は何度もありがとうと呟いた。 ――腕の中の彼女は震えていた。……ああ、やっぱり嘘をつくのが下手くそだな。愛しさと悲しさが胸の中で切ないほど絡み合う。――本当は忘れて欲しくないのに…… 腕を緩めると彼女が視線をあげた。視線が合うとどちらとも無く口付けをした。何度も何度も優しい涙の味がする口付けを。……別れの挨拶だった。 * 「あの階段をのぼっていって。そうすると元の世界に戻れるから……」 君は行かないのか?この期に及んでそんな事を言ってしまいそうになる。 そんな事を見抜いてか彼女は、悲しそうに目を細めた。 「…私がのぼっていっても、あなたとは違う場所にたどり着くだけ」 「何でわかるの?」 「…なんでか解ってしまうの」 そしてふと俺は疑問思っていた事を口にした。 「どうして俺は此処に来れたんだ…?」 その答えを心得ていたように彼女は答えた。 「あなたはあっちの世界で、人とぶつかって階段から足を踏み外してしまったの。そして頭を打って救急車で運ばれて、今は病院で眠っているわ。大丈夫、後遺症もなしに普通の生活に戻れる」 そうか、だからあの時悲鳴を感じたんだ。痛むわけでもない後頭部を俺はそっとさすった。 「そしてあなたはここに迷い込んでしまったの。偶然か、必然かわからないけれど」 「……それじゃあ此処は夢の中?」 「あなたにとって夢であっても、私にとってはここが現実なの」 ごめんと呟くと、彼女は謝らないでと首を横にふった。 「…それにあなたは死にたがってた。死に場所を求めうろついてそして階段から落ちた。だから此処に来てしまったのかもしれない」 「ど、どうしてわかるの」 「どうしてか解ってしまうのというのは冗談で、さっき水溜りのような池があるって言ったでしょ?あれはあっちを映し出す不思議な水溜りなの」 あまり干渉してはいけないものなんだけどとばつが悪そうに苦笑いする彼女。 「…だから英士が幸せじゃなかったら直ぐ私にばれちゃうんだからね」 「わかった……」 言いたい事がたくさんあるのに、なぜか言葉が詰まって一言発するのだけで精一杯だった。 「さあ、早く行かないと取り返しがつかない事になってしまうから」 そう言って彼女は無理矢理俺の背中を押してのぼるように促す。 「さあ早く!英士はあっちでサッカー選手になってそして私に劣らず可愛いくて気立てがよくってお料理上手な女の人と結婚してサッカチームが組めるほど子どもを作らなきゃいけないのっ!」 おいおいと内心でつっこみながらも、それが彼女に出来る精一杯なのだと思うと胸が苦しくなった。 「…」 「何?」 「ありがとう」 もう後ろは振り向けなかった。 きっと泣き虫な彼女は口では強がっていても、涙がとめどなく流れ落ちているのだろう。 ――でももう俺は、その涙を拭ってはあげられない。 だけど、 「ねえ」 「なあに?早く行きなさいって…」 「…俺があっちで自分の人生を終わらせたら、また此処に来ていい?」 「……サッカーチーム組める程子どもが出来たらね」 「わかった…」 俺は一歩一歩噛み締める様に階段をのぼっていく。 「ねえ」 「…なあに?」 彼女の声が段々と小さくなっていく…… 「ありがとう……」 「……こちらこそ」 そして俺は階段をのぼりきり、その先に大きく立派な木組みの門があり、その先は眩しい光に包まれていて、ゆっくりと目を瞑り、足を踏み入れた。 …零れ落ちた涙が温かかった。 * ――ふと今でも、街中であの香りがすると振り向いて探してしまうんだ。けれどやっぱり求める人の姿はなくて、俺は当たり前な事なのに溜息をついてしまう。 「えぇいぃしぃーっ!」 人ごみを器用にすり抜けて小柄な女性が駆け寄ってきた。 「お待たせーっ!」 「…約束の時間より10分早いでしょ?」 「でも英士は待ってたじゃない?」 そう言って彼女はにこにこと笑って腕を組んできた。 「…あれ、英士お線香の匂いがする」 そうだねと頷いた。そう今日はあの人の命日。 何も言おうとしない俺に不思議そうに視線を向けながらも、彼女は持ち前の明るさでそんな事をすっ飛ばした。――人に触れられたくない傷の一つや二つあるものよね。…前にも同じ事があり、彼女はあっけらかんとそう言ってみせた。その軽い言葉の裏に、やはりこの人にも傷はあるのだろうと、瞳の奥の動揺は笑顔で消せずに居た。そうして俺たちは付き合うことになった。 ねえ、。 俺はあれから足掻きながら幸せを得ようと必死に生きた。そしてこうやって天真爛漫な人とめぐり合ったよ。サッカーチーム組める程子どもができるかわからないけれど、今日は君の命日で、そして彼女のご両親に挨拶に行く日でもあるんだ。 「手土産さ、もみじ饅頭なんだけど、いいかな?」 「うちの親甘党だから大喜びだよ!」 柄に無く緊張してるよ。 君にはそんな事筒抜けかな? 「…ねえ」 「うん?」 「ご両親にご挨拶終わったら、話したいことがあるんだ……」 「…大切な話ね?」 「……ああ」 ありがとうと彼女は笑った。 俺は、この人とでよかったと心底思った。 「5番目にすきよ」と笑った君。 何を持って5番目に好きなのか、今はまだわからないけど、いつかあの場所で会えると信じている。 それまで俺はあの香りを感じる度に君を探してしまうかもしれないけど…… 5番目にすきだった title/LOVEBIRD |