その人には欠けているものがあった。 性格や資質ではない、なにかが。 そして俺はそこに惹かれた。 万人が持っているであろうものが彼女にはなく、そして顕著に現れるのが笑った時だ。 音で表すなら、透明な澄んだ響き。水滴が落ち、波紋をひろげる、そんなイメージ。 穏やかで、震える。美しい場景。 その人は他人に比べて、感情が表情にでない人だった。感情の起伏が平坦で、だからといって冷淡なわけではなかった。――優しくて、ただ感情表現が不器用なだけ。柔らかい微笑みは俺の心をかき乱し、そっと伏せて翳った瞳は、保護欲をかきたてられた。 ――そんな人。 愛しい人だった。 互いが側にいるのが当たり前で、まるで空気のように在り、無いと生きてはいけない。――失ってしまったら、世界の終わりのようにさえ思った。彼女の居ない世界は無用で、一秒も呼吸も心拍も動かしたくは無い。……言葉にすれば恥ずかしいけれど、きっと心の中でそう思っていた。 失えば、己を忘れる。 狂おしくて大切。ただ彼女の存在が綺麗な透明で、そのことが少し俺を苛立たせた。 俺はこんなにも狂おしく、感情の色が混ざり合っているのに。 resonance ミーテングが終わった夜更け。自室の浴室から出ると、カーテンがふわりと波を打った。 換気の為に開けておいた窓から、まだ肌寒い風がふわりとゆれる。シャワーで火照った身体には丁度いいが、その内冷えるだろう。換気ももう充分だ。窓を閉めようと一歩踏み出すと、予想外に大きな風が入り込んで、カーテンや窓近くに置いていた物が悲鳴を立てた。慌てて窓を閉じ、辺りを見回すと風のせいで少し散乱していた。 ……やれやれと屈みこむと、頭にかけていたタオルがカシャンと不吉な音と共に床に落ちた。俺は大きく溜息を零し、恐る恐るタオルを拾い上げた。どうやらタオルが落ちる時近くにあった棚の物を巻き込んで落ちてしまったらしい。――その棚に何を置いていたかな。 拾い上げたタオルの下には小ぶりな茶色のガラス瓶が横たわっていた。 落ちた拍子にひびが入ったのか、床にじわりとシミをつくる。 そしてふわりと芳香を放つ。 ――ここに置いていたのか。 俺は呆然と液体が零れていくのを眺める。……中身が少なかったせいか、小さな水溜りの中、瓶はひっそりと横たわる。香るのは、甘くどこか渋みも感じる清涼な香り。それが濃厚に鼻腔を刺激して、充満に辺りを埋め尽くす。むせ返りそうなほど強く。 いつまで経っても、忘れさせてくれない。 ……否、忘れたくないからふとした時に、記憶の扉が開く。 忘れてはいけない。風化してはいけない。 だからきっとこうやって記憶を蘇らす鍵が、あるのだ。 ――俺を律して、罰するために。 「ローズウッド…懐かしいな」 彼女が好きだった香り。その人の部屋に、抱き寄せた時にふと香る清涼な甘み。心を落ち着かせてくれた優しい香り。まるで彼女のようだった。だから今まで関心がなかったアロマに興味を覚えた。――会えなくても、この香りをくゆらせば、その人を抱きしめているように思えて。虚しい欺瞞であっても。まるで側で微笑んでくれるようで。温かく、透明に。 ――包み込むように。 「……っ」 どうして君は、俺の世界から居なくなってしまったの。 どうして愛したままの、透明な微笑で消えていったの。 思い出はこんなに濃厚で、忘れる事さえ出来ないのに。心と身体は忘れる事を拒否して、記憶の君の一挙一動を脳に焼きつかすんだ。 世界を狂わしてはいけない。呼吸を心拍を止めてはいけない。一つ一つの出来事を君につなげてしまう。 ――ああナゼ俺はこんなに弱いのだろう。 あの時も君の手を捕まえる事が出来なかったのに。今もこうして苦しみもがいて。 呼吸が苦しい。心臓も悲鳴を上げている。 君の居ない世界の空気は慈悲もなく淀んで、俺を一分一秒と弱らせていく。 声を上げて泣く事さえ出来ない程。 come soon... |