Diskordanz
重ならない気持ちの不協和音





















私は、あなたがいない世界を知っている。
そして、あなたがいる世界も知っている。


だからヒトリの孤独も知っているし、誰かを想う幸福も、遣る瀬無さも知っている。
全部、知っている。

だからこの事を後悔しない。



「…理由、訊かないんだね?」

彼の性格上それを良しとしない事は承知の上で尋ねてみた。そうしたら案の定彼は、「決めた事だろう」と私の言葉を一蹴した。当然私は「そうだね」って彼の言葉を肯定する言葉しか返す事が出来ない。…わかっている。全部じゃないけど、解っている。あなたの事見てきたから。触れてきたから。愛していたから。だけど、シナリオ通りに進んで欲しくなかった。――これは私のエゴだ。女心だ。鈍くて一直線の彼が気づいてくれない、私のホントウの心だ。

「好きって気持ちさえあれば、なんでも大丈夫だって思ってた。でも、現実って難しいね。あなたは特殊な職業で、私は普通のOL。住む世界も、立場も違くて、唯一同じなのは同じ高校だったって事だね」

クラスと学年は違かったけどね。――彼が二つ上の学年だった。

「偶然の再会!しかもあなたの職場の図書館!困っている私を助けてくれたあなた!…なんか年柄もなく『運命だ!』なんて舞い上がっちゃった」

…もういい。どうせもう何時間もしない内に、本当に別れる関係だ。恥ずかしい事も全部いってやろうじゃない。…それが私が唯一出来る彼へのあてつけ。最初で最後の。

「でも篤は私の事なんか覚えてなくって、スッゴイ寂しかった」
「…まぁ、その」

彼らしくない切れの無い言葉だ。――それだけ動揺しているんだろうかな?

「ま、私もオトナになりましたし。身だしなみとして化粧が…濃くなったしね。わかんなくても仕方ないよ」

社会人になって驚いた事。
もうこの先関係ないだろうと思っていた「宿題」ってものが出された事だ。ビックリしたあの動悸を今でもすぐに思い出せる。そしてあの戸惑いも。本は高い。専門書になれば尚更だ。社会人一年目のOLの給料じゃ、かなり痛くてほそぼそと節約生活を余儀なくされるのは目に見えていた。――そしてそんな時の図書館だ。


ただっ広い図書館の中で目的の専門書を探すのは至難だ。そしてその時のための図書館員だ。…まぁ彼は少し特殊だけど。
そして何の因果か、彼と再会した。彼は覚えていなかったけど、私は一目で、彼を堂上篤だと気づいた。
憧れていた高校時代とは違う落ち着いた声音に仕草。…けれど思い出以上にきりりと男前になっていた。

「お探しですか?」

囁くような甘い声音は私の耳朶をくすぐった。
――あなたをさがしていました。
そんな甘ったるい言葉なんて言えないけど、私の心はあの頃を急速に思い出したようで、一気に心拍数を上昇させ、甘く切ない思い出が喉元までせりあがって、言葉が詰まった。

しどろもどろになる私を見ても、彼は優しい瞳で待ってくれて、そしてまるで魔法のようにすぐに欲しかった専門書を持ってきてくれた。

そして少しだけ掠めた指先の温かさに、愚かにも眠っていた恋心が舞い戻る。

……ああ懐かしい。アレはまだ、葉桜になる少し手前の、花弁がひらりと舞う季節のことだった。

そして、今はもう冬。
つい先日、雪片がちらりちらりと灰色の空の下舞って、アスファルトの上で溶けた。


――そう、溶けたんだ。


思い出も、優しさも、愛しさも、切なさも。
彼の無事を願う思いも、思いつめる日々も、会えない日を言いわけするのもされるのも。


「…ほんっとに、何も訊かないんだね」

こんなに胸を熱く焦がした自分がバカみたいだ。代わり映えのない日常に、彼が居るだけでそれだけでキラキラと輝いていた。彼は今も昔も憧れで、私の色彩だったんだ。


あなたが好きだったんだよ。


「訊いた所で、行くんだろ?」


ずっとずっと思い焦がれて、


「…だったら俺から何も言う事は無い」


だからあなたにも、思い焦がれて欲しかった。
……そう、私は自分自身に賭けていたんだ。
あの憧れだった堂上篤が、「別れる」と告げたらどんな反応を見せるのだろうかと。
あの冷静なツラが動揺でどんなに情けなく崩れてくれるだろうかと。

…自己中心的な想いだけど。
そこまでしても愛されているという実感が欲しかったんだ。
自分でも面倒くさいと思う。けど、そこまで執着するほど彼が好きだった。

だから彼にも好きでいて欲しかった。

いま、この終わる時にでさえも。…否、終わるからこそ。


愛されているという、
ガラスの透明な冷たさと、
ガラス越しの空の優しい色が、最後に欲しかった。


私は、私の賭けに負けた。

失う辛さも、隣に居ない心細さもしっている。私はそんなハイリスクを背負って挑んだのだ。けれど惨敗。勝ち目も抜け道ももうない。
後悔はしない。所詮、彼にとって私とはそんな存在だったというわけだ。私は一人のぼせ上がっていただけなんだ。

後悔はしない。

じゃあね、と私は伝票を片手に立ち去った。
此処の喫茶店には何度お世話になっただろうか。
彼と過ごした時間がこのコーヒーの香りと共に胸に刻まれている。

お互いまだぎこちなかった春も、
けんかばかりしていた夏も、
忙しさを口実にしていた秋も、

ああ、もう振り向かない。
人生はやっぱり期待した通りにならない。
でも、後悔はしない。

後悔はしないけど、
この苦しさを涙として流してもいいでしょうか?