ポロポロ、やがて蝉は死んでいくのでしょうね…… アフターイメージ …彼女はゆっくりと食べ物を口に含んで咀嚼する。 少しだけぼんやりとした目で、どこを見つめているのか、視線が曖昧な一点に集中していた。 そして思い出したように、ゆっくりとサラダを口に運んで、咀嚼する。その繰り返し。 俺は彼女の隣で、夏休みの課題用の本を読んでいた。――否、読んでいる振りをしていた。シャキシャキと、彼女が顎を動かすたびに、レタスか何かが噛まれるくぐもった音がする。規則正しく、それでいてゆっくりとした音で。 ――俺はどうにもこうにも、気になって思っていたことを彼女に聞いてみることにした。 「…さんって、夏バテ?」 その言葉に反応してか、彼女の肩が微かに震えた。そして彼女はゆっくりと顔を向けてきた。――口に物を含みながら。 やっぱりと、俺は読んでいた振りをしていた本を閉じて、彼女の方へと体の向きを変えた。 「少し頬がこけた感じがするけど……」 さっきこの会議室に入った時、花火大会以来久しぶりに見た彼女は、なんだか小さくなったように感じた。 もともと大柄な方ではなく、どちらかというと小柄な感じがしていた彼女だけれど、なんだか首周りが細くなったように感じた。 さんはいつの間にか口の中の物を飲み込んでいた。そしてばつが悪そうに俯いて、手持ち無沙汰そうに両手で小さなサラダのカップを微かに転がした。 「…いつものことなの。夏になると食欲が無くなっちゃうの……」 「夏バテ体質…とかそんな感じ?」 「うん。そう言ったら早いかもね」 そして彼女は、折角買ってくれたのにごめんねと、はにかんだ。 ――俺はなんだか、彼女の歯切れの悪い言い方に引っかかりを感じた。わだかまると言うべきか、今日の彼女はいつもの彼女ではない…と思う。 …説明しがたいけれど、そんな風に感じた。 数時間も経たない間に、何度も俺に『何か言いたげ』な眼差しを向けては逸らす、その繰り返し。…彼女は俺が気づいていないと思っているんだろうか。彼女の目には、明らかに落胆の色が浮かんでいた。 はぁと、もう何度目かのため息をして、彼女はゆっくりと、また咀嚼を始めた。微かにくぐもった音を聞きながら、俺は再び身に入らない読書を再開した。 * * * それからしばらく経っただろうか。彼女がサラダを食べる気配がしなくなった。 俺もそろそろ切がいいので、ふと本から目を離して、さんの方に向けた。 隣のさんは、深く俯いていた。 あれからまるで箸を動かしていないようで、小さなカップのサラダがまだ全然残っていた。 ――さんと、微かに呼びかけると、さんは大仰に肩を震わせて、力なく握っていた割り箸がカーペットの床に落としてしまった。 「さん?」 「……お箸落としちゃった」 さんはえへへと照れた様に笑って、床に落ちた箸を座ったまま拾おうとした。――箸を拾おうとした瞬間、彼女は椅子の上でバランスを崩して、膝から落ちるように床になだれ込んだ。膝において置いたサラダも、重力に従い床一面に広がった。 「大丈夫?!」 俺はあまりの事に驚いた。そして椅子から弾かれたように、床にしゃがみ込んだ。――もともとカーペットには、この綺麗な部屋にそぐわないほどの大きなシミが幾つかあるのを知っていたから、サラダのドレッシングのシミぐらい可愛いものだろう。…否、そんなことより。 「さん?大丈夫?」 なだれ込む様に落ちてもなお、彼女は深く俯いたままだった。彼女の肩先を軽く揺すぶってみても、俯いたままだ。 「どうしたの?やっぱり具合が悪い?」 風邪でもひいたと、言い差して俺ははっとした。俯いた彼女の顔を覗き込むように窺うと、さんは唇を強く噛み締めていて――そして、 大粒の涙をいくつも浮かべて、流していた…… * * * すっかり狼狽してしまった俺は、ただただ言葉を失ったまま彼女を見つめた。――それは、健全な普通の人間として当たり前な反応だろう。……だってついさっきまでニコニコ笑っていたかと思えば、次の瞬間泣いている。そんな事をされて、平然としていられるほど、俺の神経は出来たものではない。 「だ…誰かに何かされた?」 …だから、こんな素っ頓狂な事を言ってしまっても、決して笑ってほしくはない。 誰だって急に泣かれれば、パニックに陥るでしょ…?! すっかりパニックに陥ってる俺に気づいたのか、彼女はすすり泣きながら、微かに震えた声でごめんなさいと呟いた。表情は深く俯いているので伺いしれないけれど、けれどやっぱり辛そうな顔をしているのでは。と易々と想像できた。片手で目元を覆い、もう片方の手はスカートを強く握りこんでいた。……それから嗚咽が止まらないのか、彼女は、何も言わずただただしゃくり上げ続けた。 何に対して泣いているのか、毛頭想像できない。けれど、さんが泣き出す位のことなんだから、それなりのことなんだろうって思えた。 だって、いつも見かける彼女は始終微笑みを絶やさない人……俺の中ではそう印象がある。 クラスで見かけても、彼女は友達やクラスメートに向かってよく笑っていて、楽しそうだった。……授業などは真剣な顔や、ぼんやり退屈そうな表情を浮かべる時もあるけれど、でも、彼女の取り巻く雰囲気が、優しげで穏やかなものに思えた。 さんに対する第一印象って、すっかり忘れてしまったけれど、それでも『優しそうな人』だと、きっとそう思っただろう。……後にわかったのは、喋らせたら中々面白い人だって事。人を中傷することなく、面白おかしく語ってくれる。さんと一緒に図書委員になってから、クラスメイトの事を少しずつ知っていった。……練習や遠征で、よく学校を休む俺の代わりに、ノートのコピーや、様子をちょこちょこと喋ってくれた。 正直言えば、学校で『馴れ合い』なんてものはしたくはなかった。 親友はいるし…前は彼女もいた。アンダーやクラブのチームメイト。それだけいれば十分って思えたし、あまり学校に来ない俺に学校の奴らもある種避けていた。……いじめとかそんな幼稚なことではなく、ただある程度の距離を置いて接してきていた。 …遠巻きに陰口を叩く奴らもいた。けれどそんな輩は極少数だった。小学校や中学校とは違って、高校に入ってからどこかみんな『個人主義』な感じがした。――それはこの学校が『進学校』ということが関係しているのかもしれない。 高校に入ってからすぐ、またはそれよりも前から大学の事を視野に入れている人たち。みんながみんなそうではないけれど、それなりにいるだろう。目指すものに向かっていて、差して周りを気にしない。…それこそ、ちょこちょこ休む奴なんかは特に。 確かに、気にしなさ過ぎる奴はいないだろうし、それじゃあクラス運営が成り立たない。けれど、それでも差し支えない所で『個人主義』を貫く。 他人は他人、自分は自分。 …俺もそんな雰囲気の方が楽だし、別に文句はなかった。むしろその方が嬉しい。 小中と、やれ『サッカーの代表だ』とか『韓国人とのハーフだ』とか、そんな事で大騒ぎされてきたから、干渉されすぎないこの雰囲気は、息がしやすかった。 『郭くんってサッカーしてるんだよね?』 初めてさんと委員会の仕事をした日、およそ『サッカー』って言葉がそぐわない彼女が話しかけてきた。――それは確か、校門の桜の木が、葉桜になった頃。新入生が少しだけ学校になれた頃だった。 新入生の『学校探索』で図書館はいつもより賑わっていたけれど、この時期になるとようやくもとの静けさが戻ってきていた。 『そうだけど……』 俺は訝しんだ。…3年間一緒のクラスになったものの、さんとちゃんとした会話をするのがこの時が初めてだった。だから俺は、自分の中で“”って人を把握していなかった訳で、手っ取り早く言ってしまえば“頭の軽いミーハーな人”かと一瞬頭をよぎった。 ……中学の時、この手の女がごまんといたから。彼女らにとって“サッカーの何かの代表の郭英士”。中学という小さなエリアに現れた“特殊な存在”。そんな風に有名人と同列に扱われ、そして彼女らの“ミーハー”の標的に合っていた。『すごくない?!』そう言えば俺が喜ぶかと思っていたのだろうか、彼女らは。虫が集るようにいつも付きまとってきた。 『さんサッカーに興味あるの?』 そんな事を思い出して、せせら笑うように彼女に尋ねた。――この人も“奴ら”と同類か。 …けれど彼女は、俺の底意地悪そうな笑みを気にすることなく、『うん』とただ楽しそうに破顔した。――それはそれは、俺の懸念がバカみたいに思えるほど無邪気に。 『あのね、弟が武蔵野森って所に通っててね、で、サッカー部なの。弟は…でぃディフェンダー?っていうのをしてるんだけど……』 ディフェンダーであってるよという意味の相槌を打つと、さんは嬉しそうにまた微笑んだ。 『弟ね、いま中2で今度試合に出るんだって。弟とか、お兄ちゃんもサッカーしてたんだけど、私全然興味がなくてルールとか全然わかんなかったの。でもね、弟が一軍に上がって…あ。武蔵野森のサッカー部の仕組みってね』 『一軍、二軍、三軍ってわかてるんでしょ?』 彼女が説明しだす前に言うと、さんは驚いた様子で『知ってるの?』と尋ねてきた。…アンダーで武蔵野森の奴らは知っていたし、それより何より『武蔵野森のサッカー部』は、サッカーをしている人にとってとても有名だ。 彼女は驚いた様子で少し口を噤んでいたけれど、また快活に話を再開した。 『…それでね、弟は小さい頃からサッカーをしてたの。…もともとお兄ちゃんの影響なんだけど。お兄ちゃんと弟の年の差が6つ離れてて、ほら小学生の子とかよくサッカーで遊んでたりするでしょ?うちの弟“お兄ちゃんっ子”でよくお兄ちゃんの後ろに引っ付いてて、遊んでもらってたの。だから奏一…弟の名前ね…が、サッカーを始めたのは極自然なことだったの』 彼女は微笑ましいものを思い出したように、なんとも言えない優しい笑みを浮かべた。――彼女はきっと幼かった自分たち兄弟、とりわけ弟さんのことを思い出したのだろう。 『お兄ちゃんはもともとお遊び程度にやってたんだけど、いつの間にか奏一は真剣にサッカーをしたいって言い出したの。だからどこかはわからないけれど、サッカーを習いだして、で、武蔵野森を受験したの』 そして彼女は微かに肩をすくめた。 『私、あんまりサッカーに興味なかったの。外遊びは好きだったけど、鬼ごっことかドッチボールとかそういう遊びの方が好きだったし、サッカーばっかりやってる弟の気持ちなんかわからなかった。だって、他にたくさん楽しい遊びがあるのにサッカーばっかりやってるんだよ?…って郭くんに失礼だね』 そんなことないよと苦笑いして、先を促した。 『弟はみんなが他の遊びをしていても、サッカーをしてた。それで武蔵野森のサッカー推薦を受けて、2軍として受かって入れたの。家族は喜んでたんだけど…奏一だけは、すごく悔しがってたの。『一軍は入れなかった!』って。滅多に泣かない弟が悔しそうに泣いたの……』 だからと彼女は、優しい微笑をたたえてきた。 『だからこんなに奏一が夢中になる『サッカー』ってどんなのだろうって興味を持ったの』 ――そう笑った彼女が、鮮烈だった。 ……今までであった事のない女の子だったから。 それからやがて、彼女とはぽつぽつと話すようになった。けれど一切お互いに踏み込んだ話はしなかった。……いや、この前俺が衿子の事を話したけど。 だから、彼女がどういう中学生時代を過ごして来たとか、初恋はいつだったとか……そういう彼女の過去を一切知らない。俺はさんが“何を抱えてきた”のかを知らない。 さんの“悩み”を知らないし、“悩みをどう捉える人か”を知らない。 ――悩みを抱えても、笑い飛ばす人もいれば、考えすぎてしまう人もいる。けれど、俺はさんが“どういう人”なのかを知らなさ過ぎる。…けれど今まではそんな付き合いが『楽だ』と思っていた。お互い込み入った話をしなければ、気を使う事も気を使わされる事もなくて済む。 今でも、そう思う。 …気を使う事も、中身を知って傷つく事も、思い煩う事もないから…… でも、どうしてなんだろうか。 今、この瞬間。そんな“上っ面”だけの付き合いが、ひどく寂しいものに思えた。 さんは未だ、泣き止む気配がなかった。 薄汚れたカーペットの上に蹲り、すすり泣いている。 ――そんな様子の彼女が、あまりにか弱い存在に思えた。まるで何にも、それこそ風にも耐えられなさそうに…… 彼女の全身から、悲しみや孤独といった分子が発せられているようにも思えた。取り巻くものを全てを青く感じさせ、そして『助けて』という無数の叫びを聞いているような、そんな感じだ。……だから“その事”をした事は、俺にはごく自然な事だとも思えた。 ――それは、衝動とも言うんだろう。 引力…とも言うのかもしれない。 つまりは、 俺は、小さくすすり泣く彼女を抱き寄せた。 ……外は、蝉が大群を為してナイテいた。 back ・・・・・・・・・・・・・・郭発情(逝け) |