彼が買ってくれたサラダを噛み締めていたら、
彼の“儚い想い”を噛み締めているように感じた。






それは帚木
アフターイメージ






……人って、どこまで人を愛せるんだろうね。
私は声無き言葉で、彼に問い続けた。――それは視線ともいう。

郭くんは、隣でさらさらと静かに読書を続ける。……難しい哲学の本を難なく読み続ける彼に、尊敬すると共に、正直呆れを感じてしまった。…ほんの少しだけ。

真っ黒な輝きの、真っ直ぐな瞳。

少し長めのまつげに縁取られた郭くんの目。繊細と表現すべきなんだろうか、彼の横顔は、少し女性的で、でもスッと伸びる長い首に走る筋や、のど仏が彼が男性だという証を示している。 けれどやはり印象的なのは、その漆黒の瞳。ある種の輝きを秘めた瞳。

――そして時折、字面を追って伏目になって益々黒味を増す、その瞳。

……私は一瞬呆けた。隣で他愛無く会話をしていた彼は、とても深い思い出を抱いているんだろうって。

彼はその瞳で、4年という歳月の間彼女を見つめ、見つめ返され。そして愛しいと感じ、感じられ。微笑み、微笑みあい。



その瞳で、そして全身で、彼女を愛してきたのだろう。



ふと、郭くんが買ってくれた昼食類に目を向けた。テーブルの上に、幾つか未開風なまま置かれていた。なんて事のないコンビニ製品。――彼はこの前のハンカチのお礼だと言い張って買ってくれた。……そして正直気恥ずかしかったのも否めない。…だって好きな人に、しかられる様にコンビニまで引き連れられたのだから。

隣で読書をしていた郭くんは、ふとこちら側に視線を向けてきた。

「…さんって、夏バテ?」

いきなり核心を突く質問をしてきたので、私は驚いた。――郭くんは、私の反応を見てやっぱりといった風情で、体の向きを変えてきた。

「少し頬がこけた感じがするけど……」

郭くんがじろじろ見てくるもので、 私は恥ずかしさをごまかす為に、微笑を浮かべながら、そしてサラダを一口噛み締めた。 冷房が切られた“中”は静かな部屋に、私のシャキシャキとレタスを噛む、くぐもった音が響いているように感じた。

「…いつものことなの。夏になると食欲が無くなっちゃうの……」

「夏バテ体質…とかそんな感じ?」

確かに夏バテなのだけれど、正しくは夏バテではないのかもしれない。――上手く説明できる言葉が見つからなくて、うんと頷いた。

「うん。そう言ったら早いかもね」

そう言うと郭くんは釈然としないらしく、首をかしげた。私はこれ以上話すべきではない…と感じて、「折角買ってくれたのにごめんね」と言って、謝った。郭くんはまだ腑に落ちない様子だけれど、私が話す気が無いと悟ったのか、また読書を再開し始めた。…追求される事がなくて、私はほっと胸を撫で下ろした。

そしてふと、買ってもらった品物をぼんやり眺めた。それから、静かに読書を続ける郭くんを横目でちらりと視線を向け、また品物にゆっくりと向けなおした。

正にその瞬間。ハッと貫かれた痺れを感じた。

身震いするほどの“何か”を感じて、私はまだ飲み込むには咀嚼が足りない、口の中の物を不意に飲み込んでしまった。

――そして、ようやく気づいた。

今一番誰よりも、一番近くにいるって思ってた。…けれどそれは、大きな勘違いだ、という事に気がついた。何故気がついたのか。…本当は、薄々気づいていたのかもしれないけれど、これといった確証が無かったし、気づかないフリをした方が自分にも都合が良かった。だけど私は“気づいてしまった”。

『人を愛する事に説明は要らない』

…先人がそう言ったように、自分の気持ちに説明はいらない。…否、説明できないって言った方が言いのだろう。『愛は盲目』そうともいうかもしれない。つまりは『自分の気持ちに説明は出来ないし、必要ない』ということ。――これは私が郭くんに抱く慕情の場合。
だけど、郭くんの話となると話が違う。

彼は大切な事にまだ気づいていない。

…今気づかなければ、この後…何ヶ月も何年後かに気づいたとき、彼は大きな悲しみ、虚無感さえ抱く事になるかもしれない。

私は郭くんの事を多くは知らないから、多くは説明出来ない。
けれど郭くんが行った行動の端々から感じられた事は、私なりに説明できると思う。

私は、頭の中の事を整理しようと決めた。

この決意は私の中で決めた事だから、隣で黙々と読書をする郭くんが知るはずも無い。 私はちらりと、横目で彼を窺って視線を手に持ったサラダに戻した。 …またサラダを一口食べようかと思ったけれど、結局寸前で、止めた。





*
*
*





「多分、これからも、ずっと好きだと思う…」

郭くんが彼女さんを振ったことを告白した時、本当に苦しそうに顔を歪ませて、“涙”を流した。お互い込み入った話はほとんどしないのに、ただあの時郭くんは自分の事を喋った。――たぶんどこかで吐き出したいって気持ちが止め難いほど肥大化していったせいじゃないかな。きっとね、郭くんは溜め込む人だと思う。それが良い事でも、悪い事なら尚更。たとえどんな苦しい時を迎えても、決して弱音を吐かないで、ただひたすら耐えるんじゃないかって。



だけどただ一度だけ、私に弱音を吐いた郭くん。



多分それは、私が“特別な存在”云々ではなくて、吐き出すのに丁度良かったから。 郭くんは、親友が2人いるって喋ってくれた事があった。――余談だけど、私も親友が2人いるって話した。…普通ならその2人に喋るのが妥当だけど、たぶんその親友さんも“彼女さんの事”に大いに絡んでいるから、喋れない状況だったんだと思う。

だから、私に話した。


私は、郭くんのことは全然知らない。…話すのは図書委員の時だけで、それも郭くんが練習で来れない場合があるから、本当に限られた日数だけ。…だから丁度いい存在なんだと思う。

ある程度親しいし、郭くん自身の事をあまり知らない。

丁度いいはけ口って、思えたんじゃないのかな…だって、核心を突く質問はしないし、彼自身を知らないからただ話を聞くだけ。そして郭くんは思いのまま喋ればいいのだから。だけど“完璧主義者”の郭くんには、つい弱音を吐いてしまった事をひどく後悔したんじゃないかな?だから、埋め合わせに、一緒に花火大会に行ったり、優しくしてくれたりしたんだと思う。

今日もにこにこ、郭くんは笑った。――郭くんの笑い方に“にこにこ”という形容は似合わないけれど、だけど丁度あてはまる言葉が見つからないから“にこにこ”。



にこにこ笑う郭くん。けれど、その微笑はまるで作り物のよう。



きっと“本当の笑顔”を向けるのは、本当に心開いた人だけ。私なんかに向ける微笑は、ただの既製品のようなものだ。そして柔らかな声音で私を呼ぶ。『さん』と。
ねぇ、郭くん。……色々、私わかってたよ。けれどそれでもいいって思えた。だって一年前の私はあなたと話す事すら出来なかったから。だから“はけ口”って認識されてもいいって思えた。…だってただのクラスメートより全然格が高いじゃない。

あなたのこと何も知らないよりかは、何かを知っていたい。
…本当に、恋をするって愚かになるんだね。例え、自分が知りたくない事でも、困っているあなたの姿を見ると放っておけなくて。あなたの事を知れば知るほど、あなたの中での私の存在がいかにちっぽけか。思い知らされるのに、それでもあなたを想う事を辞めれない。

――例え小さくても、あなたの中に私…って存在があるんだ。

愚かな希望に胸膨らませて『出来たはけ口』としてあなたの傍に図々しく居座る。



笑って喋ってふざけ合って、彼の“悲鳴”にそっと気づかないフリをする。



とても簡単。…だって自分の気持ちを押し殺せば、あなたの隣に居られるんだもん。 そして何も知らない優しい郭くんは私に微笑を向ける。――それはそれは綺麗な出来物の。

たとえ“既製品”でも郭くんが笑えば、無条件に嬉しいって思えた。バカみたい心臓が煩くて、顔が火照って。――私にとって、好きな人が隣で笑っている。こんな些細な事に私の心は喜びの悲鳴をあげた。 他愛無い事で笑い合えるって本当に幸せだって思えた。……本当に。話しかける理由を作らなくても“図書委員”の時は普通に喋れた。――きっと上辺だけの綺麗な“友情関係”として。

二人っきりの時間

誰も邪魔することも、好奇な目で見られる事もない穏やかな時。……そしていつしか沈黙さえも苦にはならなくなった。だって知っている?沈黙を苦痛にならなくなればなるほど、お互いの距離が縮まってきているって事なんだよ?…きっとね、郭くんの事だから知ってたよね。 時々、何の脈絡も無い事を喋ってたよね。…本当に意味も無い事。



『そういえば、明日晴れる?』

『うん、晴れるって予報出てたよ』

『そっかぁ暑いの嫌だな。…う〜ん、何だか小腹が空いたかも』

『あ、もう閉館時間だ』

『今日の夕ご飯なんだろう?』

『もう帰っていいんじゃない?』

『あ、本当だね。帰ろうか』



何も気づいていないフリをしていた時は、それはそれは嬉しい事だった。だって、なんでもないことが話せるって『心開いた関係』だから出来る事。…今まで私が育んできた友情関係だとそうだったし、一般的にもそうだって言えると思う。

でも、今言えるののは“そうじゃない”ってこと。

郭くんは私に心許した訳でもなく、友情関係を築いてきたわけでもなかった。
…きっとそう。私にはわかるの。

こんな解りきった言い方をしたら、郭くんは怒るかもしれない。だけど私は私なりに郭くんの事を想って、密かに目で追って、彼の“悲しみ”を理解しようと努めてきた。…寂しいなら傍にいてあげたい。って思った。

自分の感情を殺してでも…

…せめて、彼の中で『一番』になれないなら、『二番』でもいいって涙を飲み込んで、微笑んだ。 私が想いを伝えない限り、彼の傍にいられるなら、それでもいいって甘んじて受け入れて、明るく振舞った。

だけどこれらは、私のエゴだ。そして自己欺瞞だ。
自分を自分自身で偽り、そしてもう傷つきたくないって臆病になっているだけ。 私が告白できない事を正当化してるだけ……

臆病な自分を認めたくなくて、自分で自分の気持ちに蓋をしているつもりで、その実蓋を閉められていない。だから、彼が彼女の事を語れば傷つくし、あり得ないのに彼が笑えば、嬉しくて、

――そしていつしか、郭くんが笑う度に“意味”を問いたくなっていった。

とても愚かなことかもしれない。だけど、好きな人が傍で優しく笑ってくれる。誰だって、その笑みはどういう意味なんだろうって思ってはしまうんじゃない…?
私だって、こんなに汚い感情を抱いているけれど、ただ彼が好きなだけで……
だから本当は期待してはいけないのかもしれないけど、でも心は別の生き物のように反応してしまう。

彼が優しく微笑むたびに、にっこりと口元を綻ばすたびに、

『ねえ、郭くん。私のことどう思っているの?』

言える分けない言葉が、洪水のように頭の中で溢れる。そして呟きそうになる口を叱咤して、くだらない事を言って誤魔化す。
――微笑む郭くんを。そしてなにより、自分自身を。





*
*
*





隣で、郭くんは未だ読書を続ける。本をめくる音がやけに鼓膜に焼き付いて、離れない。彼がページを捲れば捲るほど、何かが遠ざかっていく、そんな得体の知れない孤独感を感じた。

私はふと俯いていた顔を上げ、そして彼が買ってくれたペットボトルのお茶を取ろうとした。……けれど手を伸ばし掛けて、やっぱり止めた。――憚られたともいう。




それは、ほんの数十分前の話。
コンビニに行ってはみたけれど、ただぼんやりと商品棚を眺めるだけの私を見かねて、郭くんあなたは何も言わず買い物カゴに商品を入れていった。


サラダ

おにぎり

ペットボトルのお茶

いちごのフレーバー入りのヨーグルト


彼は、極自然にそれらの商品をカゴに入れていって、そして私にこれでいいかと尋ねた。…私は買ってもらう立場で、否とも言えなかったし、それに自分で選ぶ気力もなかったからただこくりと頷き、ありがとうと呟いた。

郭くんはそれには微笑んだだけで、手馴れた手つきでズボンの後ろポケットから財布を取り出し、レジへと向かった。私はぼんやり、他の人の邪魔にならない所で、郭くんの後ろ姿を眺めた。会計をしている郭くんからふと視線を外して、デザートの陳列棚にふと視線を向けた。

私の目線ほどの高さの棚には、売れ筋の物や新製品が綺麗に陳列されていた。それらをざっと視線で撫でた。売れ筋の棚には、いちごの果肉入りのヨーグルトが置かれていて…私はふと、胸の中に“しこり”が出来た。

釈然としないまま、デザートの棚を見下ろしていくと、郭くんが買ってくれた、いちごのフレーバー入りのヨーグルトを見つけた。それは一番下の陳列棚の、それでいて片隅に一列だけ置かれていた商品だった。…値札見るとヨーグルトにしては少し高めで、入れ物が瓶のような容器だからかなと思った。そして少々の申し訳なさを郭くんに感じた。

『郭くんのほうが高くついているかも…』

私は郭くんを手当てした時に使ったハンカチの事を思い出す。――確かあれは、千円もしない…確か500円強ほどの綿のハンカチだ。白地に、一箇所端っこに赤い花の刺繍が施された無名ブランド品。それでも気に入っていたから構わなかったし、だからといって手当てに使った事を後悔はしなかった。

そんなことをぼんやりと思っていると、すっかり会計を済ました郭くんが不思議そうに声をかけてきた。


『もう行くよ、さん?』

『あっ!うん、ごめん』


私は慌てて、郭くんについてコンビニを出た。
外に出れば、むあっと、一気に汗が出るような暑さで、私はすっかり“しこり”の事を頭から抜けてしまった。だって、郭くんが買い物袋を何ともなしに持っていることに気づいたから。


『持つから、袋ちょうだい?』

買って貰った上に、持ってもらうのは…と思って、買い物袋に手を伸ばしかけた。だけど、郭くんはやんわりと私の手を退けた。

『いいよ。重くないし』

郭くんはほらと軽く買い物袋を掲げた。でもと私は言い差して、やめた。折角の好意を素直に受け取ろうと思ったから。

私は嬉しくて、思わず笑みがこぼれた。
……こんな些細な事に喜べたのは、その時の私はまだ何も気づいていなかったから。もしもあの時気づいていたら、こんな風に喜べなかったと思う。

そして何も知らない私は、図書館までの道のりを彼と他愛無い話をして、幸せを噛み締めた。 ――とても独りよがりな幸せを……




数十分前の事を思い出していたら、私はまた自然とこうべが下がっていた。それもかなり深く。 そして暗澹たる気持ちが、胸倉を悪くさせる。泥ついて、心を酷く圧迫させる…そんな感じだ。なんて汚い、そう嫌悪の念を抱いた瞬間、隣の郭くんが囁くように私のことを呼んだ。

さん、と。優しくかすかに息を含んだ声。

私は驚いて、握っていた事を忘れていた箸を床に落としてしまった。

さん?」

「……お箸落としちゃった」

郭くんはいぶかしんで、また私の名を呼んだ。
誤魔化そうと、笑って箸を拾おうと前屈みになった。落ちた箸は少し離れたところでバラバラに転がっていて、椅子に座りながらだと少し無理がある距離だった。手を精一杯伸ばして拾おうとした瞬間、私はバランスを崩して椅子から雪崩落ちた。

「大丈夫?!」

郭くんの驚いた声が、静かな部屋中に響いた。――私は膝においていたサラダがひっくり返っているのに気づいて、一瞬ぼんやりとした。そして拾わなきゃと、そう思っていざろうとすると、膝がピリピリと痛んだ。
痛いなぁとぼんやりと思っていると、いつの間にか郭くんがしゃがみ込んで「大丈夫?」と窺ってきていた。大丈夫だよと言いたいのに、ノドが声を発することを忘れたかのように、ただ空しく息だけが吐かれた。

「どうしたの?やっぱり具合が悪い?」

郭くんの大きな手が、私の肩を軽く揺すぶる。――温かいな。ぼんやりと俯きながら彼の手を横目でとらえた。



郭くんの彼女さんは、この手を触れていたんだなぁ……



そう思った瞬間、私の身内で何かが迫り上げて来た。とめ難いほど大きな衝撃で、そしてツンと鼻の奥が弾かれた。


きっと郭くんはふとした時ぼんやりしている時、彼女さんの事を思い浮かべているんだろうな。だけど、郭くんは思い浮かべる事を極当たり前な事として捉えている。

郭くんの頭の中に彼女さんが存在するのは当たり前だ…ってわかっていた筈なのに。 今も好きなのは、『衿子さん』だってわかっていた筈なのに。なのに私は認めたくなくて気づきたくなくて、だから『衿子さん』の名前を自分の頭の中でさえ、呼ぶことをずっとタブー視していた。『二番』でもいいって思っていたはずなのに、ドンドンと欲が溢れ出てきた。


だけど、今日思い知らされた。


郭くんが買ってくれたものは、きっとよく衿子さんに買ってあげていた物。ヨーグルトに、否他にも小さな彼女のこだわりが存在が、見え隠れした。そしてそれを私は噛み締めた。けれど、当の郭くんはその事に気づいていない。…否、当たり前な事としてそれを認識していない。



だから、私は思わず涙がこぼれた。



それは重力に逆らう事も無く、ポタポタとカーペットの上に小さなシミが出来ていく。止めようと思いながらも、止めたくないって矛盾した考えが頭の中でぐるぐる渦巻いた。

きっと郭くんが見てる。困ってる。だから、泣き止んで。

そう思う反面、『もう泣いてもいいじゃない』って囁きが聞こえてくるようだった。そう。私はいつも泣きたかった。郭くんが傍にいる事が嬉しい反面、辛くて悲しくて涙がこぼれそうになった。

楽しいんでいても、笑っていても、衿子さんの存在が頭を掠める……

郭くんは時折、ほんの一瞬どこか遠くを見ているようだった。…きっと思い馳せたのは衿子さんのこと。私がどう足掻いても、何をしてもその衿子さんの存在を彼の中から消す事はできなかった。…だから、郭くんの傍にいる事が嬉しい反面、胸が引き裂かれそうに辛くて寂しかった。悲しかった。

なんて私の存在はちっぽけなんだろう。

足がすくむほど愕然とした。こんなに優しく笑ってくれるのに、接してくれるのに。


彼の心は、果てなく遠い……



近くにありそうで、その実遠い。傍にありそうで、実はない。
――それは帚木。



ふと彼の影が重なってきた。滲む目でなんだろうと確認するように顔を上げると、郭くんは切なそうな労わる目で見つめ返してきた。そしておずおずと、私を抱きしめた。まるで壊れ物を扱うように慎重に、慎重に抱きしめてくる。私は一瞬思考回路が停止して、そしてようやく自分の置かれた状況を把握した。

「か…郭くん?」

そう呼びかけると、郭くんは抱きしめる力を更に込めた。少し息苦しくて、酸素を求めるように顔を上げると、郭くんの髪がかすかに鼻先を触れて、清潔なシャンプーの香りがした。ぎゅっと抱きしめてくれた彼のぬくもりが、私を切なくさせて、また涙を誘う。…突き放すべきだと、脳細胞が命令するのに、従う事ができない。
ポタポタと私の涙が彼の肩を濡らす……





どうしていいのかもうわからなくて、ただただ彼の背中のシャツを強く握り締めた。






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帚木(ははきぎ)と読みます。