さようならは、決して寂しいだけの言葉じゃない
――君がそう教えてくれたから……






それは幼き日の淡い淡い涙と恋心
アフターイメージ






今も昔も。結局私は八方美人だった。
誰かに嫌われるのが怖くて、無視されるのが怖くて。人の目に常に怯えてて…だから『いいこ』であろうって思った。誰かが困っていれば、すかさず手を差し伸べる。そんなスーパマンみたいな存在になろうって思った。

『衿子がいてくれなきゃ』って言われるような。

そんな存在になりたくて、本当の自分を押し曲げて押し殺して、無理にそんな存在を演じてみせた。…自分でも結構上手く演じてたと思う。朝から、しつこくない笑みを浮かべて、みんなにおはようって声をかけて、積極的に話しかけて、話を聞いて。予習復習はちゃんとして、宿題してこなかった子に冗談を言い合いながらノートを貸したり。

こんな。こんな簡単な事で『クラスのヒロイン』になれるんだって思った。

本当は朝はとっても弱くて、話しかけるのも億劫に感じて。人の話を聞くより、話すほうが好きだったし。予習復習なんかするんだったらテレビ見たい。
でも、本当の私を捻じ曲げれば、私はクラスの中心にいられた。そしてクラスメイトは勿論、先生からの信頼を簡単に得られた。だから、学級委員になるのも、部長になるのも、みんなのマスコットになるのも。

とても、とても。簡単な事だった。そして『当たり前』とも思えた。

『辛いでしょ?』

けれど彼だけは、同情するような目で私の目を覗き込んできた。



*
*
*



私はふと、顔を上げた。どうやら私は受験勉強の最中、眠気に勝てなくて寝てしまったようだ。机の上に突っ伏したまま、シャーペンを握りこんだ形で寝込んでいた。う〜んと呻って伸びをして、凝り固まった首をぐるっと回した。机の上には、英語の問題集が広げられていて、その内の空欄はまだほとんど埋まっていない。
なんだっけ、確か地球温暖化についての文章だっけ?
ざっと文章を目で追うと、文中に『global warming』と記されていたから、そうなんだろう。やれやれと独り言ちて、机の上に置かれた時計を見やった。4時32分。デジタル時計がそう時間を告げていた。確か勉強を始めたのは、昼ごはんを済ませてからだから、だいたい1時半ぐらいに始めたはずだ。それで最後に時計を確認したのは、30分ほど前の4時ごろ。

30分寝てたのか…

私は額をおさえてため息をついた。そして窓の外を見やった。…夏のせいか、4時だというのに外はまだまだ明るかった。部屋の中は冷房が効いていて、暑くはないけれど、やっぱり外は暑いんだろうなと思った。8月に入り蝉が一層賑やかになったせいか、ますます夏が煩わしく思えた。
そしてまた勉強を再開しようとすると、充電器に置かれた携帯がブルブルと振動し始めた。誰だろうと携帯を手にすると、懐かしい人からメールが一通着ていた。

英士と別れて、一層遠のいたその人は、いつもと変わらず仏頂面の、そして不器用な文面が綴られていた。だけど私は、その仏頂面に隠された優しさを知っているし、それにそんなこと気にするほど、付き合いが浅いわけではなかった。

私は思わず、笑ってしまった。決して文面がおかしいとかそんなのではなくて、ただ本当に不器用なんだなって思えて。つい可愛くて笑ってしまった。


『元気か?そういえば衿子受験するんだってな頑張れよ。メール久しぶりだな。
それでさ、あさって結人と出掛けるんだけど、衿子時間取れねえ?』


相変わらず、絵文字の一つも使わないシンプルな文面だな。思わず口元が綻ぶような、何だか優しい懐かしさを感じた。思えば最近、学校の友達と勉強の話ばっかりだったなって。時々、結人からもメールが来るけれど、大抵話が英士絡み。だから結人からメールが来るのは嬉しい反面、辛くもあった。一時的に勉強から逃れられるけど、けど違う面での『現実』と向き合わなきゃいけないわけで……

きっと一馬の話っていうのも、英士のことなんだろうな。

わかっていたけれど、やっぱり懐かしい友人に会いたいなって思った。…といっても3ヶ月ほど会っていないだけだけれど。

やっぱり英士と別れてから、結人や一馬とは会いにくくなった。きっと会おうと思えば会えるのだけど、でも何だか会いづらくて…気まずいって言ったらいいのかな。結人や一馬は英士の親友であるわけだから。“英士繋がり”って所がネックなんだと思う。きっと自然と話題に英士の事とか上がってしまう思う。…私は未だ、英士と繋がるものを極力避けている。それがサッカーだったり、よく行った近所の公園とか、ペアリングだったり。

去年のクリスマス、お互いのリングを買いあった。英士は最後まで渋ってたけれど、それでもどうしても欲しくて。そんなに高価じゃないシルバーリング。私は左薬指にはめてたけれど、英士はサッカーで汗をかくからと言って、携帯のストラップにくくりつけていた。…当然私はその事に不服だった。



『はめてくれなきゃ意味ない!』

『…そう言ったって、サッカーって結構体当たりとか泥まみれとか当たり前なんだよ。指にはめてたら、一週間もしないうちにボロボロになるでしょ』

『…だってロッサの練習場って芝生じゃない』

『ロッサの練習場だけでサッカーしてるわけじゃないよ』



英士は呆れたようにため息をついた。…結局、私が拗ねたりごねたりしても英士はリングをはめることがなかった。…否、それは嘘だ。サッカーが無い日など、学校では極力はめる様にって約束をしたんだった。…でも夏場はかぶれると言って、はめるのを嫌がって携帯に器用にくくり付けていた。


英士はそういう人だ。


あくまで自分のペースを崩さない。
本当は、英士に色々して欲しいことがたくさんあったけど、結局はお互い妥協点をみつけるか、それか私が妥協するか。英士が折れるって事はほとんど無かったと思う。何日も前から約束したデートも、英士側のスケジュールが悪くなると、あっさりとおじゃんとなった。そんな事は数え切れないほどだ。

『いい加減にしてよ!』

私が、日々積もりに積もった鬱憤が爆発したこともしばしば。でも結局私が大騒ぎして、暴れて、そして疲れて終わる。その間英士は、一言も言わず押し黙って、そして私が落ち着いてきた頃『衿子?』とそっと問いかけてくる。結局、その英士の『衿子?』って一言だけで許してしまった。こっちが呆れるぐらい、静かで優しい声で呼ぶもんだから、出はながくじかれた。そんな感じだ。

それでも、怒りが収まりきらない時は、英士は決まってココアを買ってくる。冬だとホット。夏だと、時々炭酸水だったりもした。

…それが英士なりの『仲直りの仕方』だった。自分が明らかに非があるとき以外は、決して『ごめん』とは言わなかった彼。そして『ごめん』とけんかを終わらせるために、ココアを差出た彼。



一緒に誕生日を過ごせなかった次の日。
クリスマスに会えないって決まった日。

…そして、英士の通う高校に落ちた日。

はい、と静かにココアを差し出してきた。



合否判定が送られてきた日、私は泣きじゃくった。英士に送られた書類と、私に送られた書類の厚みが明らかに違っていた。開ける前からわかっていたことだけれど、合否判定の書面を見たときのあの辛さは言葉にし難かった。…いくら学校の宿題や勉強を頑張ったとはいえ、難しい事はわかっていた。この近辺で有数な進学校で、志願者が多い事も知っていた。

英士がその学校を受験するって打ち明けた時、何の冗談かとも思った。サッカー一筋の英士がなんで、進学校に進まなきゃいけないんだって。確かに英士は頭が良かった。サッカーで忙しいはずなのに、いつ勉強してるんだって不思議なぐらい。私が毎日一生懸命宿題に取り掛かったりしても、全然太刀打ちできなかった。

英士が打ち明けた時、口論になった。口論といっても私が一方的にまくしたてただけなんだけれど。やっぱりその間、英士はむっつり押し黙ったままだった。そしてやがて、私が言い疲れたのを見やって、また『衿子?』と声をかけてきた。そっと、そっと静かに。その時不意に、英士と初めて話した時を思い出した。

それまで、おはようとか挨拶をする程度だけで、特に英士とは関わりが無かった。その時、まだ私は英士のことを郭くんと呼んでいて、英士も前谷さんと私のことを呼んでいた。

あれは確か、私が学級委員の仕事として、プリント整理をしていた時。もう一人の学級委員の子が部活で時間が裂けないと言われて、一人で黙々と大量のプリントに格闘していた。英士は、前の日サッカーの試合か何だかで、学校を休んで何かの教科の先生に呼び出しを受けていた…らしい。はぁと一際大きなため息をついていたら、丁度英士がクラスに戻ってきていた。


英士は、中学の中で注目の的だった。


他の男子とは違って、バカみたいに騒がなかったし、暗い雰囲気を放っているわけでもなかった。大抵の事に『我関せず』といった感じ。だからと言って非協力的過ぎでもなかった。ある程度人とは一線を引いていて、自ら話題の口に上がろうとはしないその姿勢に、学校内の女子が熱を上げないわけがなかった。サッカーで年代別の日本代表か何かで、それに見て呉れもそれなりにいい。…密かに私もいいなと思っていたけれど、相手に気づかれない程度に、『学級委員』として接していた。…ミーハーな態度をとる事が、私のプライドが許さなかったせいもある。


『あれ、郭くんどうしたの?』

『…英語の先生に呼び出しされたんだ』


彼はそう言って、自分の席に戻っていった。私が座っている席より、前側にあったから私は英士の行動をつぶさに観察が出来た。


『昨日提出の宿題の事?』

『そう』


私は内心ドキドキしながら、英士に話しかけた。今までまともに話しかけたことがなかったせいもあるし、それゆえ何を話していいのかわからなかった。
けれど、彼はまったく臆した様子もなく、淡々と自分の帰り支度を始めていた。

私は、不思議なドキドキ感。期待感と不安感を感じながら、彼の帰り支度を見守っていた。そしてふと、英士が振り返ると、心臓がドキっと鈍く響いた。


『前谷さんは何してるの?』

『あっ。…学級委員の仕事…だよ?』

『そんなにたくさんの、一人で?』


彼は怪訝そうに眉をひそめた。私はドキドキしながら、笑ってみせた。


『もう一人の子は部活で抜け出せないんだって。それに私、今日部活ないから。帰ってもすることないんだ』


本当は、今日の宿題や復習をさっさと済ませて、テレビを見る予定なんだけど…なんて彼に言えるわけなかったし、言おうとも思わなかった。
そしてあははと笑う、私の声が空しく教室内に響いた。
ややあって、彼は静かに口を開いた。まだ彼の顔にはいぶかしむ表情が抜けきっていなかった。そして少しだけ空気を含んだ声音で『前谷さん』と呼びかけてきた。私はまた、ドキリと心臓が反応した。



『前谷さん。本当は辛いでしょ?』



彼はやがて、同情するように目を見つめてきた。
私は思わぬことを言われて、言葉を失ってしまった。そして彼は、それじゃ頑張ってと言って、静かに教室から出ていった。…その静かな教室の中、私の心臓だけは忙しく打ちつけた。


*


思わず昔の事を思い出して、微笑みとも切なさとも呼べない、苦い感情がのど元までせりあがった。そして、一馬のメールに返信し始めた。…今、誰かにこの辛さを話したい。聞いて欲しい。

学校の友達には語れない。

だって学校の私は『強い衿子』ってレッテルが貼られているから。弱さを曝け出せるのは、極限られた人たち。こうやって苦しくなると、私ってバカだなってつくづく思う。だって弱さを曝け出せる関係を作ってこなかったのは、私が阿呆だから。弱さを出せる強さを持てなかったとも言うべきだろうか。結局、他人に良い面しか見せる事のできない臆病者。偽善者。…そして卑怯者。


いくつもの自分を罵る言葉が浮かびながら、送信ボタンを押した。


一馬と結人を犠牲者にしようとしているのだから……
ごめんねと心の中で彼らに謝った。そしてこれきりにするからと、言いわけもした。



これっきりにするから、最後に私の話を聞いてください、と。





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やっと一馬がでっぱり出してきたよ(汗)