私がほしかったものは、 口先だけの約束よりも、 君の微笑み一つだった。 アフターイメージ 幸せというものは、不幸せの正反対の物だと信じていた。 温かくて癒されるような、心の安定。トキメキ、恋焦がれる寂しさ。 重ねてきた、あなたの手のぬくもりは、じんわりと温かくて少しだけ汗ばんでいた。 私は彼がそっと目前まで顔が近づいてきてから、目を瞑った。彼が徐々に近づいてくると、彼の顔がぼやけてきて、ただ郭くんの瞳が射るように熱いとだけ感じた。 そっと口付けられた唇は、しっとりと温かくて柔らかかった。 私は、その温かさに、不意に涙がこぼれそうになった。 そっと口付けしただけなのに、呼吸をするのが難しいぐらい私の心臓は乱れていた。一旦、彼が唇を離した時、私は、はぁと大きく息を吐いた。彼は、ふわりと口元に微笑を浮かべて、そしてまた口づけをしてきた。今度は少し強く。本当に息が苦しくなるぐらいに。私は思わず郭くんのシャツの胸元を掴んだ。…シャツ越しに、彼の体温を感じて、またビクリと私の心臓は飛び跳ねた。そうしたら、郭くんはより一層口付けを強くしてきた。 ――ああ、このまま時が止まってしまえばいいのに。 このエアコン冷えした部屋での事が、永遠になればいいのに…… お互い唇を離した後、大きく息を吐いた。そして、二人で目を見合わせて、くすりと笑った。そっと額と額が触れそうなほど近くで、くすくすと。お互いの笑う振動が伝わってきて、なんだかくすぐったかった。 私は、こんなにも「幸せ」と「不幸せ」が表裏一体なものだと思い知らされた。 彼を、郭くんを好きになれば、こんなにも歯がゆいまでの「幸せ」を感じる一方で、もう何ヶ月かで離れ離れになってしまう「不幸せ」、喪失感を覚えた。 * * * 「俺はさんのことが、好きです」 一瞬、私の思考回路は停止した。そして何度も大きく瞬きをして、郭くんを凝視した。 「さんが驚くのも、無理ないと思う。けど、俺はさんの事が好きだ」 郭くんは一度大きく息を吐いた。…彼も緊張しているのだろうか。表情には全くと言っていいほど、緊張した面持ちが見えないけれど、口元が微かに震えている、そんな風に見えた。 「俺は…俺はずっと、衿子の事を言い訳にして、自分の気持ちから逃げてたんだ」 「本当の、気持ち?」 彼はこくりと頷くと、ゆっくりと息を吐いた。 …私のこの逸る気持ちは、自惚れじゃないんだよね…? 私も、息を吐くことを忘れて、心臓がどんどんと速まっていった。 「自分の気持ちに気づかないふりをしていた方が、楽だって思ったんだ。今まで通りに、バカな事言ってじゃれあってた方が。…でも、だんだんと気づかないフリをしていたほうが『苦しい』ってわかったんだ。…もっと早くに気づけば、無駄にはしなかったのに……」 「無駄?」 「ごめん、オレが莫迦だった」 「郭くん?」 私はいまいち郭くんの言っている事が呑み込めなくて、ただただキョトンと郭くんの顔を覗き込んだ。そっと彼の肩先に触れると、郭くんは微かに震えていた。…どうしたの?と改めて郭くんの顔を覗き見ると、郭くんは苦しそうに表情をゆがめた。 「オレは…オレは、さんのことが好きだ。…だから付き合ってほしい」 私も、郭くんのことが好きだよ。 そう口を開こうとすると、郭くんはそれを手で制した。 そしてやがて、ゆっくりと重たそうに郭くんは口を開いた。――とても辛そうで、でも、微かに彼のプライドに触れた気がした。 「実は、俺…決まったんだ」 「決まった、って、入団先のこと?」 「…うん」 「おめでとう!」 私はあまりに驚いて手で、口元を覆った。そうじゃなきゃ、わけのわからない奇声を発しそうだったから。一瞬、頭の中が真っ白になるほど驚いて、嬉しかった。 「おめでとう!いつ決まったの?それよりもどこに決まった?」 私は嬉しくて嬉しくて、矢継ぎ早に質問をした。ドキドキ胸が高揚して、言葉が身内からあふれ出した。 おめでとう、おめでとうと、うわ言のように何度も繰り返して、郭くんの肩を何度も叩いた。郭くんはチラリと微笑んで、微かにありがとうと応えて、それっきり黙りこんでしまった。 「郭くん?」 照れてるのかなと思い、指先でツンと肩先を突いた。 「照れてるの?」 私はもう一度小突いた。 「かぁくぅくーん?」 「さん…嬉しい?」 だんまりを決め込んでいた郭くんが口を開いて、私は思わず首をかしげた。 「うん。嬉しいよ?だって郭くんの夢だったんでしょ?」 「うん…そうだね」 「すごい事じゃない!郭くん頑張ったね!」 「うん…」 「本当によかったねぇ!」 「…さん、本当に嬉しそうだね」 郭くんは凄く冷静に感じた。はしゃいでいるのは私だけ、でも嬉しいものは、嬉しい。 だって、と私は一旦口を噤んだ。 これからいう言葉が、告白にあたるものだから、緊張せずにはいられなかった。 「私は、好きな人が夢を叶えたり、嬉しい事があったりしたら…嬉しい」 口を閉じた途端、私の身内の温度が一気に上がった思いがした。耳たぶまで熱くなって、今更ながら郭くんの顔が見られなくなった。いくら郭くんから告白してきたにせよ、自分の気持ちを本人に言うのは気恥ずかしい。それから私の心臓は、違う事でまた忙しく音を立てていた。ドキドキと部屋中に響いていそうなぐらい大きく。そしてその気恥ずかしさから、私はまったく口を閉じた。元より郭くんも、閉ざしたまま。 「ねぇ、さん」 しばらく沈黙が続き、その沈黙を破ったのは郭くんだった。ふと顔を見上げると、郭くんの苦しそうな微笑みと視線がぶつかり、思わずドクリと心臓が鈍い音を立てた。 なにか、とてもよくない事を言われるのだろう… 郭くんの表情からそれが窺えた。 「実は俺…」 * * * 私はそっと彼の頬に触れた。男の人にしてみれば、滑らかな頬だった。彼は少しだけくすぐったそうに身じろいで、でもそっと私の手の上に自分の手を合わせてきた。 「…何?」 その言葉とは裏腹に、彼の口調には強い自信のようなものを感じた。…そっとあわせてきた彼の手は、華奢なようで、それでも私の手よりも確実に角ばっていて硬くて大きくて、そして何だか安心感を覚えた。 私は逸る鼓動をそっと抑えて、軽く息を吐きだした。のどの奥が震える。不安で手も震えているだろう。郭くんの頬に触れているのだから、彼も震えているのはわかっているだろうに。 ――でも、彼はゆっくりと微笑んで、私を温かに見つめていてくれる。 だから、私はこの優しさに甘えすぎてはいけない…… 「…広島……なんて遠くないよ」 そして私はまたゆっくりと息を吐き出した。 「メールも、電話も。会いたくなったら新幹線でも、飛行機でも……」 「うん」 彼は、私が何を言いたいのか察したらしい。彼の頬に触れていた手が、今は強く握られている。…私はのどの震えをぐっとのみ込んだ。 「逢いに行くから。隣に居ない、なんて感じないほどメールも電話も…手紙も。送るから…貯金を、いっぱいして逢いに行くから。寂しくなんて、させないから」 うん、と彼はまた私の手を握り返してきた。痛い、痛いくらいに。――彼も震えていた。強く握り締める手が、小刻みに震えていた。彼の目を見つめると、切なげな色を深くたたえていた。 「…いつも、いつも応援しているからね。だ、から頑張って!私も頑張るから…!郭くんに負けないほど、頑張るから。だから、だから郭くんも応援してね…?」 「うん…絶対に、応援するよ」 「うん。私も絶対に…するから」 きっと、直接会うより、ブラウン管を通して“逢う”ことが多くなるだろう。けれど、それは私側の話で、郭くんはそういうわけにはいかない。…一般人の私がブラウン管に映る可能性なんてほぼ無い。卒業後は、一方的に私が彼に“逢う”という立場になる。それも、まったく会話の出来ない、冷たい再開。 『お願い行かないで』 そんなワガママ、言えたらどんなに良いのに…… けれどそのワガママを言ってしまえば、きっと終わってしまう。それに、彼の夢の妨げになりたくない。好きだから、ずっとずっと好きだったから、彼の邪魔にはなりたくない。…失いたくない。 「卒業したら…ほとんど逢えなくなるから」 「うん」 「今のうちに、色々出掛けたり…しよう?」 「そうだね…」 「ほら、私も推薦をもらえる見込みがあるし、郭くんも入団先決まったし。ほかの受験生とかに比べたら、ありあまるほど時間があるじゃない」 「うん、さんどこに行きたい?」 本当は卒業まで、私たちの関係が続くかなんてわからない。もしかしたら一ヵ月後、一週間後、それとも明日。いつ別れるかわからない。 それと同様に、一週間後、一ヵ月後、はたまた一年後、十年後。ずっとこの関係が続くかもしれない。 何があるかわからない。 「幸せ」の傍には「不幸せ」があって、「不幸せ」の傍に「幸せ」がある。 寂しいよ、切ないよ。 でも、これが私たちの現実。 ただ、現実を受け入れて、自分の気持ちを受け入れる。 誰かのアフターイメージ、残像がまだ胸に残っていても、でも、今、彼が「愛しい」という気持ちを大切にする。それは、簡単なようで、とても難しい。 だって「過去」は綺麗な思い出として残っているから… これから私たちが築き上げていく事よりも、困難にぶつかるよりも、 過去に浸ったほうが、傷つけられないから。 過去は優しい。過去は甘い。 でも、過去を懐かしむだけでは、「私」を成長させてくれない。冷たく、辛い現実に向かっていくからこそ、私という存在が成長できる。過去に経験したことを踏まえて、今を生きる。…たとえどんなに辛くとも。辛い中に「喜び」があるのだから。辛いという事がなければ、嬉しいという事を感じないから。 優しさ、あげるよ。 だから、 優しさ、下さい。 そして彼と、私の手が重なり合い、涙が零れ落ちそうになった…… back 過去を懐かしむだけじゃ、本当に成長できない、と痛感させられた経験が何度もあります。 |