手に入れたかったのは、私の幸福の種。






ローレライはさよならを口ずさむ
アフターイメージ






「私ね、きっと甘えられる存在が欲しかったの…」
「甘えられる存在…?」

彼は、一馬は首を傾げて先を求めた。私は苦く一笑してから、ポツリポツリと頭の中に浮かぶ言葉を懸命に拾い始めた。――そう、これは私がしなければならない、区切りの作業だ。私が強く、前に進むための。

「ねぇ、一馬…」
「ん?」

いつも通り一馬はぶっきらぼうだ。何に腹を立てているのだろうって思うほど、眉をしかめ、生まれつきの猫目のせいで威圧的に、昔は思えた。今は違う。ただそれが、彼の普通なんだ。――ただ、それだけのこと。
そして、一馬の彼女もその事に気づいたのだ。

なんて、温かな幸せ。

「少し、話が長くなって、それで、わかり辛いかもしれないけど…いい?」
「…ん」

一馬は表情を変えずに、ただこくりと頷いた。…ただ少しだけ、労わるような温かな眼差しを向けてきたのは、気のせいではないのだろう。
夏の昼下がりの、この喫茶店は、寒いぐらいに穏やかだ。



*



私はただ単に、弱虫だったんだ。
それは、他人に向き合う姿勢、何かに取り組む姿勢。そして、英士に対する姿勢。

「無理だってわかっていても、もっと希望を持って同じ学校を受験すればよかった」
「それって、高校のことか?」
「そう。私が一番、英士が憎くて、理不尽に思えた事」
「…そうか、でもそれは、」
「…ん。わかってるの、それはただ私がワガママだったという事なの」
「衿子…」

私はストローの先をつまんで、もてあそんだ。グラスの中でぐるぐると氷がかき回って、まるで、自分の感情みたいで滑稽に思えた。

「私は…ただワガママで、甘ちゃんだったの」

それにプライドが呆れるほど、高かった。――否、今もそうかもしれない。

自分の弱さと向き合えなくて、虚勢を張って。いい子のふりをして、だけど心の中では、いつでもない物ねだり。

優しさ、強さ。可愛らしさ、柔らかさ。明るさ、冷静さ。

自分より、優れていると思う人には、内心こっそり嫉妬をして、その人を上回れるように、闘争心を密かに燃やした。――いつも、肩の上に責任感を置いて、私は肩肘を張って、闇雲に何かを掴もうとしていた。

「虚空を掴む…」
「え?」
「…なんだか、自分の事を言われているみたい」

苦しくて、辛くて、寂しくて。無我夢中で、空に手を伸ばして、何かを掴もうとする。…けれど、結局そこには何も無くて、ただただ空を切るばかり……

『前谷さん。本当は辛いでしょ?』

そう言った黒い瞳の持ち主は、私の脳天からつま先まで稲妻を走らせるほど、激烈なインパクトを与えた。

「苦しくて、空に向かって手を伸ばした先に、英士の手があった様に思えた」

今まで、欲しくてたまらなかった言葉をくれた少年。身にまとった穏やかな雰囲気が、何をしても許されるように思えた。

「…初めて、辛さをわかってくれた。虚勢を張った私に気づいてくれた。…英士の一言で、私は救われたの」

窒息しそうだった苦しみが、彼の些細な一言で、あっという間に和らいだ。…否、それ以上に思えた。

「私のこと、全部認めてもらえたように、思えた。頑張って背伸びして、虚勢張ってた私を温かく包んでくれるように思えた」

私はそっと、胸元を押さえた。

――ああ、今も胸がドキドキと高鳴っている。

まるで、あの時と同じように。ここに血が流れているんだ、動いているのだと。そう実感できた。…今まで、氷のように思えた感情が、雪解けを待ったかのように一気に溢れた。鼓動が大きく胸を打ちつけて、全身に温かな血が流れる……

「それから英士は、事あるごとに私を助けてくれた」

学級委員という名目で、1人仕事を負わされそうになった時も、みんなから『強い衿子』というポジションを強要された時も。

「彼は、英士は、時間が許す限りこっそりと私を助けてくれた。…時には、本当に些細すぎて気づくのが難しいぐらい。…でも、彼は、確実に私をサポートしてくれた。『強い衿子』を求めはしなかった。それがどんなに、救われたことか…」

最初は、彼が居てくれるだけで、本当に嬉しかった。傍に居るだけで、頑張れた。

「だけどね、人間って、欲深いんだって気づいた。本当に、尽きる事がなく」

私はそっと目を伏した。
今まで薬指にはめていたリングは、とうの昔に外した。けれど、癖で薬指の第二間接辺りをつまんでさする。

「…私はどんどんどんどん、英士の取り巻く環境が気に食わなくなってきた。常に英士が私を一番に考えてくれなきゃ嫌になってきた」
「衿子…」

一馬はなだめる様に、私の名前を呼んだ。私は一馬の制止を振り払って、身内から湧き上がる感情を吐き出さない訳にはいかなかった。

「だから、サッカーが憎かった…!――あんなに活き活きとサッカーを語る英士が許せなかった。英士の将来の夢が嫌だった!サッカーのせいで、英士と居られる時間が少なかった。居て欲しい時に、居てくれない寂しさ。…私をこんなに寂しくさせる、サッカーが憎かった。それに夢中になる英士が…信じられなかった」

ポタリと温かい雫が、私の手の上に落ちてきた。――涙だ。と自覚すると止め処もなく流れてきた。

「…衿子」

一馬はさっとコットンのハンカチを差し出してきた。ライトグレーのいかにも彼らしい、几帳面に折られたハンカチだ。

「ありがと…」
「…ん」

私は遠慮なくそのハンカチで涙を拭った。拭うと、マスカラの黒いダマがポロポロと取れた。

「…ね、一馬…」
「ん?」
「目の周り…真っ黒?」
「…いいや、さほど気にするほどでもない」
「そう。ありがとう…女って面倒くさいね」
「俺も、そう思う」

そう言って、一馬は呆れたように笑った。

「女って、こんな時もそういう見た目を気にするよな」
「…それって彼女も?」
「ばっ…!今は、関係ないだろっ!」

そう言って、一馬は恥ずかしそうに顔を赤らめて、プイッと顔を背けた。

――ああなんて、
この人の彼女になる人は、幸せなのだろう…!

「そ、んなことより、衿子。話の続き!」
「…ん」

膨れた一馬を可笑しく思いながら、それからゆっくりと息を吸って、吐いた。
――さっきよりも随分、気持ちが落ち着いた。

「…英士は、本当に優しかったの。だから、私甘えてしまってたの。でも、私はその事に気づかなかった」

彼が優しいのは当たり前で、ずっと傍にいてくれるものだと思っていた。だけど、それはただ私のエゴで、彼のことをまるで顧みていなかった。

「きっと、別々の高校を選んだのも、英士なりの優しさだったのだと思う。だけど、私は自分の事しか考えていなくて、彼の優しさを理不尽に思ったの」

英士はきっと私に、自分の足で立つ事を願ったのだと思う。依存するのは、とても簡単だ。同じ高校に通っていたならば、きっと私はあれ以上に彼に依存して、自らの足で立つ事を忘れていたのかもしれない。
――だけど私はその事に気づかず、ただただ彼を一方的にせめて、憎んで、駄々をこねていた。

「莫迦だね…私」

自分の愚かさに、また涙がこぼれそうになる。
彼の優しさを思うと、自分の浅はかな考えが恥ずかしくて堪らない。

「本当に、莫迦だ…」

それからしばらく沈黙が流れた。

この喫茶店は驚くほど穏やかで、それぞれの客のテーブル事に独自の世界があるように思えた。少し離れた隣の客の話し声も、まるで遠くから聞こえるように思える。
…ああ、不思議。明るいお昼頃だというのに、ここはひっそりとした異次元のようだ。

「……だった?」
「え、何?」

私はふっと我に帰った。一馬の声で、沈黙が弾けた。

「…ん。だから、衿子はそれでも幸せだった?」
「わ…たし?幸せ…?」
「そう…少なくとも俺には、あの頃の英士は幸せそうに見えた」
「嘘っ!」

だって私、英士の事傷つけてばっかりで、自分のことばっかりだったのに…!
そう言いかけて、一馬はそれを手で制した。

「衿子の事大切じゃなきゃ、そんな風に手を回したり、考えた事しなかったと思う」

それに、と一馬は続けた。

「本気じゃなかったら、あんな風に辛そうな顔なんてしねぇよ」

あんな風って、別れた時のこと?

「でも、英士は私の質問に『ごめん』って言った!だから私は、もうダメなんだ、無理なんだ…って、英士を叩いた!」

「質問?」

一馬は眉をひそめた。

「どんな?」
「『他の人を好きになった?』って」
「で、英士は?」
「『ごめん』って、一言だけ…」
「そうか…」

そうしてまた、沈黙が流れた。

私は、その沈黙の間、呆然と手に不思議な感覚を覚えた。あの時、彼を叩いた手の痛みをぼんやりと感じた。 そこに無いはずの痛みなのに。思い出せば思い出すほど、じんわりと手のひらに熱がこもっていくようだ。

「手…」
「ん?何か言ったか?」
「ううん…なんでもない」
「衿子。俺さ、考えたんだけど…」
「何を?」

一馬は、ゆっくりと言い難そうに口を開いた。

「意識して、好きになることだってあると思う」
「…どういう意味…?」
「…何か違うな。『意識されて、好きになる』っていうのが正しいのかな」

どういう意味だろうと、私は首を傾げた。

「なんとなく、タイミングが良すぎると思うんだ」
「タイミング?」
「ん…」

それから一馬は考え込むように、窓の外の風景に目を向けた。

「衿子に『他に好きな奴が出来た』って言ったのに、ロッサや選抜の時の英士は酷く落ち込んでいた」
「…自惚れ云々抜きに言うけど、それって私に対する罪悪感からじゃ…ないの?」
「それにしても、口を開きたがらないし、それに、なにか違う罪悪感にも思えた…」
「何か違う?」
「…ああ!でも何か違う!」
「か、一馬?」

一馬は頭を抱え込んで、テーブルに突っ伏した。

「あ、の…一馬?」
「よく…わかんねぇけど…」
「え?」
「…もしかしたら、衿子に言われて意識したのかもしれない」
「私…?」

ようやく一馬は、重そうに頭を上げた。

「それまで自分の気持ちに気づいてなかったのかも…」
「無自覚だったって事?」
「ああ、なんとなく。多分、衿子の質問と別れで、やっと意識し始めたのかも…」
「英士が?」

あの勘のいい英士が?
信じられない、と私は目を見張った。

「俺…そんなに長く付き合った事とか無いから、憶測なんだけどさ。もしかしたら、衿子との付き合いも『情』になってたのかも、しれないな」
「情…って、私の事好きじゃなかったって事?」
「…いや、これはあくまで俺の憶測だから」
「そうだね…ごめん。続けて?」

こくりと頷くと、一馬はぽつりぽつりと話し始めた。

「多分、別れるまで衿子の事を一番に置いていたから、自分の新たな感情に気づいてなかったのかもって」
「そうかな?」
「…英士ってさ、すっげぇ勘いいだろ?時々、引くぐらい良いんだけどさ。何て言うか、自分の事には案外鈍感なのかもしれないって俺思ってて」

そう言って、一馬は一旦口を噤んだ。

確かに、英士は人の事はなんでもお見通しって感じがする。けれど、果たしてその勘のよさは自分にも向いているんだろうか?

「それで英士は、他人と壁を作りたがると言うか、距離を取りたがるだろ?関心のある奴にはそれなりの反応をみせるけど、まったく関心の無い奴には、口も利かないし」 「…そうだね」

だから私は、初めて郭英士という人間と話したとき、何だか面を喰らったというか、ある種の優越感を感じた。――それは当時、彼にハエの如き群がっていた女の子達に。

「よくわからねぇけど、壁を越えちゃった人間なのかもしれないなって思うんだ」
「え?よく意味が…」

わからないと、目で訴えた。

「…ん。俺も自分で言っててよく解らないんだけど、多分初っ端から英士の『無自覚』の中に入った人間なのかもしれない」
「…まだよく解らない」
「俺達だって多分、最初あいつの中では、壁の外側の人間だったと思うんだ。けれど、なにかのきっかけで、壁の内側の住人になったと思う」
「関心がある側の人間になったってこと?」
「まぁ、そうだな」

想像するに、郭英士という城があり、その城を囲む堅牢な城壁の外に、外見や肩書きに群がった人間達が居て、内側に、私や一馬や結人とかがいるということだろうか?

そう尋ねると、一馬は喩えが上手いなと頷いた。

「多分、英士は一瞬でその人間の本質みたいなもんを見極める特技があるのだと思う」
「…特技というか、才能ね」
「まあ、そうだな。多分、俺達も最初、奴のふるいにかけられたんだと思う。それで、俺達はあいつの内側の人間になったんだと思う」
「…けれど、その人はそのふるいにかけられる事無く、彼の内側の人間になったと…?」

一馬は大きく息を吐いた。

「俺も詳しくは解らない。今までの話は、俺の憶測である訳だし…」
「…でも私も、なんとなく一馬の言う事もわかるし、そういう風に思える」
「そうか…?もしかしたら、そいつもふるいにかけられたけど、何か違うところで英士を惹きつけたのかもしれない」
「…と言うと?」
「よく解らない。けれど、こんな短期間に英士と付き合う事になったんだ。それなりに、常人とは違う何か違う物を持っているのかもしれない」



脳内にそのワードが、パッと鮮烈なまでに引き出された。
そして、あの花火大会の事を思い出した。

「…とても穏やかそうで、可愛らしい人だったよ…」
「そっか…衿子、会ったことがあるんだよな」

会ったではなく、見かけただけれども、この際その事は関係ない。
私が、その春の人を見たことがあるか、無いかなのだ。
あの花火大会の事を思い出すだけで、私の胸は締め付けられた様に苦しくなる。

「ねえ、一馬…」
「ん?」
「英士…いつ付き合い始めたか、わかる?」
「いや…俺も詳しくは知らない。けれど、多分最近の事だと思う」

最近…
私と英士が別れて、1ヶ月足らず。
その短い間に、彼女と彼は付き合うようになった……

「目まぐるしい…」
「何か言ったか?」
「ううん。時間が経つのが早いな、って」
「そうだな。でも、衿子も着実に変わってる」
「私?」
「…自分の非を認めただろ。それって結構大変な事だと思う」

ドキリと、鼓動が強く胸を打ちつけた。

「別に…私は…」

しどろもどろになった私を一馬は優しい目つきで、微笑んだ。

「…変わらないようで、変われるんだなって思った。衿子は、強くなったよ。自分の現実を受け入れ始めて」
「ありがとう…」

私はハンカチをぐしゃりと強く握った。
そして、やっぱり、一馬は英士の友達なんだなって思った。一見無愛想に見える彼も、ただ不器用な優しい人なんだ。小さな優しさが、弱った心にひどく染み込む。…けれどと、私は下唇を噛んだ。

甘えるのは、簡単だ。
ようやくひとり立ちをし始めた…と認められたばかり。

何も知らず、一馬は頬杖をついて、穏やかに微笑んでいる。
――縋ってはダメ。
そして、ようやく私が発した言葉は、ひどくシンプルで、強がった言葉だった。

「一馬の、彼女は本当に幸せだね…」
「お、おう…ありがと、な」

きっと泣きそうな顔をした私を見て、冗談を言っている訳ではないと察したのか、一馬はぶっきらぼうに頬を染めた。
弱った時に、優しい言葉をもらうとどうしても、その人になびいてしまいそうになる。
そこで甘えてしまえば、私は、もうひとり立ちなんて出来なくなる。…そう、間違ってはいけないんだ。これはただの親切心。同情心。

「久しぶりに一馬と話が出来て、嬉しかった…」
「もう平気か?」
「…うん」
「無理、すんなよ?」
「そうだね」

4年分の気持ちをすぐには、片付けることはできないけれど

「今あることを頑張るよ」
「そうだな…受験、頑張れよ!」
「うん。一馬も色々と頑張ってね」

「また、会えるよな?」
「…うん。また今度…って言うのは難しいけど」
「受験落ち着いたら、また会おうぜ!」
「その時には、彼女に会わせてね?」
「…あ、ああ」

いつの間にか、グラスの中の氷は溶けていた。
――きっといつか、こうやって私の気持ちも溶けていければ……

「そう言えば…結人来なかったね?」
「あ…ああ、結人」
「ん?何かあったの?」

いや、と口では否定していながら、目はひどくうろたえていた。

「一馬?」
「…やっぱり、無理だ」
「無理って何が?」

一馬は苦虫を噛み潰したように、顔を歪めた。

「…会いに行ったんだ」
「会いに行ったって、誰を」

そう言いかけて、私ははっと息を飲んだ。
そして、おそるおそる問いかけた。

「まさか…」
「うん。多分、衿子が考えている事で正しいと思う」
「何で!何しに彼女に会いに行くの?」

私と英士の問題なのに。何で、結人が首を突っ込むの!

「…怒らないでやってくれ」

一馬は私をなだめるように、穏やかに諭した。

「…でも!」

彼女は関係ない。否、関係あるかもしれないけれど、でも、彼女に非は無いはずだ。

「一時期……だったんだ」
「えっ何?」

「一時期、結人、衿子の事が好きだったんだ…」

えっ、と思わず私は息を呑んだ。

「…だから、他人事には思えないんだと思う」
「結人が…?」
「あいつ、何にも考えてないように見えて、結構考えてるから、悪いようにはしないと思うから…」

結人が私を…?

「衿子…?」


その時私の心の氷が、カラリと音を立てて、溶けたように思えた。








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人間は、痛みを経験して変わっていけるんだよ。って泣いた事あります。