いつか、こうなる運命だった






神さまは知っていたの
アフターイメージ






俺は初めてあの人に会った時、不意に顔面パンチを食らった気分になった。
ショックというより衝撃が大きかった。衿子の様に華やかな女の子ではなく、本当に普通な女の子だった。けれど、英士の彼女を見る目は、衿子に向けた事も無いぐらい、優しくて穏やかで愛しげだった。
そして彼女は英士に向けていた視線を俺に移して、にこりと微笑んだ。

「はじめまして」

高くもなく低くもなく心地よい丸みを帯びた優しい声の持ち主だった。俺は彼女の声を聞いた瞬間、ぞわぞわと粟立った。嫌悪感からではなく、何だか感動したというか。 そして俺は、英士に視線を移した。

英士は微笑んでいた。
愛しげに優しげに、そして傷ついているような目をしていた。




* * *




弱く微かにでもはっきりと、運命という線が引かれた。その線は誰かと誰かを裂き、誰かと誰かを共に歩んでいかせる線でもあった。時々、人知を超えた何かが俺たちを支配して、俺たちはその莫大な力によって踊らされているのではないだろうかと思うことがあった。…そう思わなければ、やりきれない事が多すぎて、ある意味その運命に責任転嫁をして感情を爆発させるのを食い止めていたのだと思う。

こうやって俺の前を仲よさそうに歩いている二人は、きっと共に歩んでいく線を引かれたのだろう。そして衿子と英士は、その線に裂かれた仲なんだろうと。――俺は思わず唇を強くかんで、口内でうっすらと鉄の味が広がっていくのを感じた。

あいつの涙は無駄だったのだろうか
やりなおしたいと、震える声は
幾日も幾日も、傷ついた心を抱え無理に笑っていた日々は

一体なんだったんだ?傷つくこと自体バカだったのか?意味のないことだったのか?
…それだったらこんな事になる前に、俺が。俺が衿子の事を……――っ!

「……若菜くん……?」

彼女はしばらく黙り込んだ俺を心配そうに窺っていた。

「暑い?今日陽射し強いからね…ちょっとどこかで休憩しようか?」

本当に心配した様子で、彼女はキョロキョロと辺りを見回した。繁華街の中心に佇む俺たちを通行人は鬱陶しそうな視線を投げて通り過ぎていく。

「…いんや、大丈夫。ちょっと考え事…」
「…そうだよ、さん。これでも結人はサッカー選手の端くれだから」
「…おいっ!英士!」
「ほら、元気でしょ?」

彼女、さんは俺たちのやりとりを唖然として見ていた。そしてクスリと笑いをこぼした。

「でも、私が喉渇いちゃったから、どこかに寄らない?」

ニッコリ笑う彼女の、ノースリーブから出る腕が白くて、細かった。その細さは正に女の子そのもので、そして衿子のものでもなかった。

「それに私、若菜くんといっぱい喋ってみたいし…迷惑?」
「全然!俺もさんと喋ってみたかったんだ」

ニコリと笑うと、彼女も嬉しそうに笑った。けれど、英士だけが不快そうに眉をひそめた。……そりゃあそうだろうよ。だって折角のデートをぶち壊したんだから、俺が。アンダーの練習もロッサの練習もない今日は、うってつけのデート日和。どっちも一緒の俺には、英士の予定なんて手に取るようにわかるんだ。

…だから朝早くから英士の家に押しかけ、こうやってこの二人のデートにお邪魔する。
全ては、俺の計画のため。
…衿子のために。

それにしても…押しかけた時の英士の唖然とした顔が、間抜けだったな……




* * *




俺たちは路地裏にある、おしゃれなオープンカフェに寄った。ここは彼女のお気に入りの場所らしく、英士とも何度も来ているようだった。茹だるような暑さのため、テラス席は避け、俺たちは涼しい店内の一席に腰掛けた。店内は白を基調とした清潔感のある店内だった。そして壁には点点てんの…印象派?みたいなレプリカの風景画が飾られていた。店内に飾られた木目調の家具はなんだか優しげで、とても雰囲気のいいところだ。…それなのに昼過ぎだというのに客の数がまばらで、俺たち以外に3・4組しか居なかった。今噂の隠れ屋カフェ?なんて首をかしげていると、綺麗なお姉さんが人数分のグラスとメニュー表を置いてきた。一口つけると、それはレモン水だと直ぐにわかった。さんは慣れた様子で、あとで注文すると言うと、そのきれいなウェートレスのお姉さんは、にっこり笑ってキッチンへ向かって行った。

「ここね、ケーキがすっごく美味しいんだよーっ」

彼女はにこにことメニュー表を眺めた。

「へぇー…で、英士もケーキ食うの?」
「…俺はアイスコーヒー」

俺がにんまり笑うと、英士はしれっと返してきた。しかもメニュー表も見ずに。
…つまんねぇ奴だな。
彼女も英士のオーダーに不服なのか、えーっと口を尖らせた。

「郭くんってばね、いっつもアイスコーヒーなんだよ。しかも無糖…つまんない」
「…時々アイスウーロンだけど?」
「大して変わんないよ…若菜くんはケーキ食べる?」
さん的にどれがオススメ?」

彼女はすごく嬉しそうに、いくつかケーキの種類を教えてくれた。…本当にケーキが好きらしく、目を輝かせながらメニュー表とにらめっこしていた。そんな仕草が可愛らしく、俺は思わず笑みを浮かべた。そしてはっと我にかえり英士の様子を窺うと、彼女に一点優しげな視線を浮かべていた。

ようやく彼女のケーキが決まり、ウェートレスのお姉さんを呼んだ。にこにことこっちに向かってくるお姉さんはやっぱり、綺麗だ。 俺は彼女オススメのシトロンという白いふわふわしてそうなケーキとアイスミルクティーを頼んだ。彼女はイチゴのタルトと、アイスストレートティーを頼んだ。……英士は変わらず、アイスコーヒーを頼んだ。

そしてオーダーを終えると、彼女はぱっと前のめり気味に机の上に身を乗り出した。

「若菜くんって郭くんと幼馴染なんだよね?」
「まぁな。小学生からの腐れ縁って奴?」

そう言うと、英士はふんと鼻で笑った。

「…こういう嫌味なところもガキの頃から変わらねぇ」

彼女は一瞬あっけに取られて、そして可笑しそうに笑った。

「サッカークラブ繋がりだよね?」
「そうだな。あと、もう一人ガキの頃からつるんでる奴がいるんだ」
「えぇと…『真田くん』って人?」
「一馬の名前知ってるんだ?!なんだぁそれじゃ俺が教える事なんてなくね?」
「ううん、そんな事ないの!というか、全然郭くんが自分の事とか言わなくて…」

だから喋る時は、私が一方的に喋ってるみたいなのと、彼女は自嘲的に笑った。
……俺は、その光景が易々と浮かんだ。
まあ、傍から見れば微笑ましいかもしれないけど……

「出たな、英士お得意の秘密主義」

そう言って俺は英士の、肩を突いた。
英士は呆れたようにため息をついて、俺の手を払った。まるでハエを払うかのごとく!

「それは、小さい頃から?」

俺は叩かれた指をさすりながら、横目で英士を睨んだ。けれど英士は涼しい顔をして、俺の視線をことごとく無視した。俺は心中で舌打ちをして、そして彼女に含み笑いを向けた。

「…秘密主義って、むっつりなんだよ?さん」
「結人の戯言に付き合わなくて良いよ、さん」

俺の言葉に覆い被せるように、英士は微笑んだ。…ああナゼだろう、後光が差すほど眩しい微笑なのに、なぜこんなに体感温度が冷たいんだろう…!

「いや、マジむっつりだと思うよ、英士は…」

言葉の途中で俺は、奴によって思いっきり脛をけられた。言葉に出来ない程の痛みにもがいていると、例の綺麗なお姉さんが注文した品を持ってきた。グットタイミング!すぎるよ…お姉さんっ!

「ケーキが来た事だし、早めに食べた方が良いよ?」

さんは戸惑ったように、俺と英士の両方を窺う。そうしていると、それこそ無理やり英士が彼女にフォークを握らせ、有無を言わさず食べろと圧力をかける。

「若、菜くんも…美味しいから食べなよ?ね?」

彼女は戸惑いながらも懸命に笑いかけてくる。

さんもこう言ってるし、折角だから頂いといた方がいいんじゃない、結人?」

おーまーえーにー言われなくても、食べる気マンマンですーっ!
俺は涙目で、ジロッと英士を睨んだ。けれど、やっぱり英士はしれっと無視してアイスコーヒーに口をつけた。

ちくしょー…っ!

そして俺がケーキに口をつけようとすると、隣で英士がボソッと呟いた。

「太ったボランチなんてみっともないよ、結人」

覚えてろー…っ!




* * *




そして俺たちは、その店でしばらく話した。
折角のデートを邪魔されたはずなのに、彼女はそんな不快感を一切見せる事はなかった。むしろ俺から聞かされる英士絡みの話を面白そうに聞いていた。…彼女が聞き上手なせいか、俺は結構きわどい所まで話してしまいそうになった。そのたびに、英士からの無言の圧力や脛をけられそうになったり…寸前の所でかわしたけれど、まあそうやって何度も話を戻したりしながら、有意義に話す事ができた。
俺たちの思い出話に彼女は何度もおなかを抱えて笑って、不覚にもその気取らない自然体が好ましく映った。…英士は大抵聞き役…だんまりだったのに、時々話に参加してきて、そして彼女は一層笑うのだった。

「あー、可笑しい」

彼女は笑って涙目になったその目をそっと指で拭う。そして外を窺うように、窓を見るとあっという間に夕方になっていた。

「あっ、もうこんな時間?!」

彼女は驚いて残念そうに肩をすくめた。

「もうお店出よっか?」
「そうだね」

そう言って英士が伝票を取り上げた。
おっ、中々かっこいい所見せ付けてくれるじゃんとにんまりしていると、英士はその伝票を俺に突きつけてきた。

「……はい?」
「はい、結人」

それはそれは、男のくせに綺麗な笑みを浮かべる英士。

「俺が払えって?」

さも当然と言わんばかりに、彼女を店の外に誘う英士。

「おいっ英士!」

戸惑う彼女を半ば引きずるように店外に誘う英士は、ぴたりと振り返った。
微笑んでいるはずなのに、そのオーラが怒りを表していた。

「ごちそうさま、結人」

ああああ、さん!あなたの彼氏はこんなにも腹黒いんですよ!気づいて!逃げて!危ないよーっ!…俺の声にならない叫びがどこまで伝わった事か。そして俺の財布から漱石ちゃんが3枚ほど飛んでいって、そして小銭だけが帰省してきた。おかえりっマイスイートハニーっ!!
すっかり寂しくなった財布をズボンのポケットにしまいながら店の外に出ると、さんがおどおどと申し訳なさそうに佇んでいた。外は、昼間ほどの熱気はなかったけれど、燻った暑さが風に仰がれているようだった。

「あのっ…若菜くんいくらだった?半額出すね?」
「いいよ、いいよ。今日お邪魔したの俺だし、気にしないで?」
「でも…」

ふと辺りを見回して、英士の姿がないことに気づいた。

「あれ、英士は?」
「…ああ、なんかお家から急ぎの電話が入ったみたい」
「家?」
「うん、イトコがどうとか言ってたよ?」
「ユンか…」
「ユン?」

聞き覚えがないのか、彼女は不思議そうに首をかしげた。
俺はそいつの説明をしようと口を開きかけて、ふとあることを思いついた。

「ねえ、さん」
「うん?」
「さっきの会計の話だけど、お金出すかわりに俺に付き合ってくれない?」
「付き合う?」
「…俺、さんと二人っきりで話したい事があるんだ」

二人っきりと彼女は言葉を繰り返した。

「だめ?」
「……ううん。私も若菜くんと話したい事があったから、丁度良かった」

彼女はどこか思いつめた目をして、俺を見つめ返した。
切実さの浮かぶ目は、本心なんだとすぐに理解できた。…そして少し離れた角から英士の姿が見えた。話し終えたようで、携帯をジーパンのポケットに仕舞い込んでいた。そして徐にこちら側に視線を向けた途端、俺は彼女の手をひき、走り出した。
――遠くで英士が叫んでいるのがきこえた。




* * *




彼女はぜいぜいと荒い呼吸をどうにか落ち着けようとしていた。
軽く息が上がっただけの俺に対し、彼女は死にそうに呼吸しづらそうだった。

さん…あんまり運動得意じゃない?」
「…ご覧の、通り、で、す」

たどり着いたのは、あの店から離れた住宅街の小さな公園だった。英士とは繁華街のメインストリートから姿を見ていない。…上手く撒けたようだ。
俺は後ろポケットにしまったケータイを取り出し、電源を切った。

「悪いけど、さんも電源切っておいてくれない?」

落ち着いてきた呼吸のもと、彼女はカバンの中からケイタイを取り出した。

「…何件も通知が着てる…」
「ん、だからさ、しばらく二人で話したいから切っておいてくれない?」

彼女はその意味を汲み上げ、ケイタイの電源を切った。 そしてそのケイタイをカバンにしまうと、静かに彼女は口を開いた。

「…ここまでするって…衿子さんのこと?」
「……知ってるんだ?」

彼女は無言で頷き、近くにある自販機に向かっていった。

「何がいい?さっき奢ってもらっちゃったから、私の番ね」
「…んじゃ、コーラで」

じゃあ私もと彼女は呟き、そして一本を俺に差し出してきた。

「あそこにベンチがあるから、座ろう?」
「ん…」

児童公園の背の低いベンチに二人で腰掛け、しばらく無言で缶ジュースに口をつけた。 夕飯時か、子ども達の姿はなくて、無人のブランコやジャングルジムが寂しげに夕日に照らされていた。どこからか夕飯の匂いが漂ってきて、ノスタルジックってこういう事なのかなってぼんやり夕日を見上げた。…漂う沈黙が口を開く事を拒絶するようだった。……けれど、隣に腰掛けている彼女は、ぷっと吹き出した。

さん?」

ごめんと彼女は手で口元を覆い、肩を震わせた。そしてしばらくして笑いが収まったのか、また缶ジュースに口をつけて、そしてゆっくりと話し始めた。

「…なんか今日の郭くんがいつもと違って、ちょっとビックリしたのと新鮮だった」
「いつもと違う?」

うんと頷き、そして彼女は両手で缶をころころとさする様に転がす。

「いつも郭くんは、冷静なの。…冷たいとは違うんだけど、いつも一定のリズム…みたいな感じで、あんなに慌てたり怒ったり、感情を表に出さないというか……」
「…ああ、英士の壁か…」

壁?と彼女は首をかしげた。

「…あいつってさあ、ガキの頃からハーフだとか、サッカーの代表だとか。そういう肩書きに群れる野次馬が絶えなかったんだ」
「そっか…でも、それは若菜くんもじゃない?サッカーのアンダーとかって」

ああと頷いて、俺は空になった缶を足元に置いた。

「でも俺は、英士ほど不器用じゃないんだ。世渡り上手っていうの?まあそんな感じで俺は切り替えしがつくんだけどさ、英士ってああ見えて不器用なんだよ。だから、手っ取り早く壁を作ったんだ」
「壁か…なんかわかるかも。初めて会った時、何となく近寄りがたい雰囲気を感じた」
「そういえば…さんと英士って一年の時から、一緒のクラスなんだって?」

彼女は少し苦く笑った。

「そうなの。でも、話すようになったのは三年からかな?」
「今まで話さなかった?」
「うん…話す機会ってなかったし、それにウチの学校って個人主義って感じがするの。みんなそれぞれ近寄るなってオーラを感じるんだよね」
「個人主義…」
「実際はそうでもないのかもしれないけど…実はね、私、中学まで女子校だったの」

彼女はそっと目を伏せた。

「男兄弟に挟まれてるんだけど…やっぱり、異性に話しかけるのが怖いというか、苦手で。それに個人主義オーラが強い雰囲気だと尚更、話しかける気とか起きなかったの」
「話しかけるなオーラが一番強かったのが、英士?」
「…うん。特に女の子の事毛嫌いしてるみたいだったし。三年になるまで関わりがなかったから、話さなかった」

彼女も缶ジュースを飲み終えたのか、そっとベンチの横に置いた。

「…ぶっちゃけ…いつから英士のこと好きだった?」

俺の質問に、彼女は恥ずかしそうに身を縮めて、そっと呟いた。

「二年…」
「二年って…でも、話し始めたのが三年からだろ?」
「うん。話しかける勇気もなかったし、それに彼女が居るって知ってたから…」

指輪つけてたし、と彼女はそっと呟いた。 ああ、本当に好きだったんだなって俺は思った。些細な事に気づくほど、目で追う片思い。行動を起こせば起こすほど傷つく可能性が大きい、その想い。

「…で、何で三年になってから話すようになったの?」
「委員会が一緒になったの。図書委員。郭くんが休んでいる時に勝手に決められちゃったのに、結構律儀に仕事に来てたの」

俺は彼女が幸せそうに笑う姿をそっと眺めた。本当に大切なようで、語る声も、思い浮かべる目も、輝きに満ちていた。

「最初、一番最初に郭くんと仕事する日に、何話そうかってすごく悩んだ。今までまともに話したことがなかったから、すっごく緊張した」
「…それで何話したの?」
「…弟の事」

俺ははっ?と声を上げた。そうするとさんはヤッパリ変だよねと苦笑した。

「弟が、武蔵森のサッカー部って話をしたの。後…小さい頃からサッカー好きなんだよって話したかな?」
「サッカー部の弟がいるってことは、サッカーに詳しいの?さんも」

俺の問いかけに、彼女は俺が予想していた答えとは全く逆の答えをはっきりと告げた。

「全然詳しくないの。というか、弟が、何でそんなにサッカーにのめり込むのかわからないって郭くんに言ったの」
「…はぁ?そんで英士は?」
「えっ…?…にこにこしてたよ、仲の良い兄弟だって」
「他には?」
「ほ、他?特に…何も、言ってない。はず」

俺は呆れてため息をついた。
そうすると彼女は、何か変?とおどおどと訊ねてきた。俺はもう一度盛大にため息をついた。
……大いに変だよ、お前ら。

「…それじゃあ、他の日には何話してた?」
「他の日は…学校の事とか。郭くんがサッカーで休んだ時にクラスでの出来事とか、ノートの写しを渡したり?郭くんからは、クラブの事とかアンダーの事とか、あと若菜くん達の話もちょっとだけ」
「…他には?」
「えっ…特に。大体そんな感じだよ?」
「はあっ?」
「やっぱり変?!だって彼女が居るのに、あんまり込み入った話したらダメかなって」

俺は本当に呆れて、言葉が思い浮かばなかった。
そして頭を抱えるように、俯いた。
だって俺が予想していたのは、もっともっと親密に、英士が衿子の事をポイッと捨てたくなるほど、さんと英士の距離が親密で…って、つまりは寝取ったのかと……いや、大変失礼だけど。でも、ここまでお人よしオーラが強烈だなんて。さっきっから何となく気づいてはいたけどさ。だって普通、あんまり時間の取れない彼氏とのデートを邪魔されたら普通怒るだろ?…まあ英士はすっげえ怒ってたけどさ……いや、ホントこれは天然記念物だよ。すげぇよ、隣に居る俺もお人よしオーラで毒されそうだよ……呆れすぎて頭が痛くなりそうだ。

「あの…若菜くん?」

さんは俯いたまま動かない俺をどうしたものかと、困った様子だ。…背中にビシビシと困ったビームを感じる。俺は徐に顔を上げて、そして彼女の顔をマジマジと見つめた。彼女はそれはそれでまた驚いた様子で、大きく目を見開く。

「あの?」
「…それじゃあさ、衿子の事はいつ訊いた?」

えっと彼女はまた大きく目を見開いた。
今度は途方もなく、傷ついた目をして。

「…衿子さんの事は…別れた次の日にきいたの。その日、図書館の仕事があって、でも郭くんいつもとは凄く様子がおかしくって。それで…泣いたの。郭くん。すごく好きだって。でも、別れなきゃいけないんだって」

俺の脳裏に、傷つき泣く衿子の姿が浮かぶ。
…思い出すだけで、胸がジリジリと痛む。

「それで、さんはその時どうしたの…?」

そして彼女は膝の上でこぶしを握り締めて、しばらく黙り込んだ。
その時、俺は祈るような気分だった。
ここまで、英士の彼女がお人よしの優しい人だとは思わなかった。ついうっかり、俺は彼女の事が好きになってしまいそうだ。もちろん、英士の彼女として。だからお願いだ。そこで英士の弱まった心に付け入ってくれ。そして、俺を失望させてくれ。そうじゃなきゃ、今日まで膨らんだこの怒りをどこにぶつけたらいいのか、わからない。だからお願い、卑劣な事をしたと言ってくれ。…嘘がつけなそうな君がそう言ってくれたら、信じられるんだ。『それは絶対に真実だ』と。そして俺はそれで溜飲が下るんだ。俺は何かに勝てるような気がするんだ。
だから、だから……――っ!

「私…言えなかったの……」

彼女は震える唇を噛み締めて、自分を鼓舞するようだった。

「私、郭くんに何も言ってあげられなかった。だって、私、郭くんのこと何も知らないんだよ?クラスメートでしかないのに、慰めの言葉なんて口に出来なかった。…きっと口にしたら、私、自分が許せないと思ったから。だって、陳腐な慰めの言葉って、罵声を浴びせるより傷つく事があるんだよ…?」

――ああ、神さま。なぜ…俺の願いを受け止めてはくれないのですか?
この胸にぽっかりと虚無感が蝕んでいく。その感触が手に取るようにわかる。ねえ、俺は何か間違っていた?親友の、彼女を好きになってしまった事が、そもそもの間違い?その傷ついた彼女を放って置けなくて、傷つけた親友やその“彼女”が許せないって思うだけなのに。

「…でも、今の私も、きっと許せなくなるの……」

彼女は静かに呟いた。目には大きな涙を浮かべながら、苦しさに顔が歪んでいた。

「郭くんはまだ衿子さんの事好き。私、その事を知っていながら郭くんと付き合ってる…」
「それ…どういう意味?」
「…私、きっと卑劣なの」

そして彼女は自分の言葉を打ち消すように首を振った。

「きっとじゃない。絶対に卑劣なの」

彼女の拳にポタポタと涙が零れ落ちた。

「…郭くんは、私のことを好きだって言ってくれた。けど、本当はまだ衿子さんに心が傾いているの。きっとそうなの。だって、郭くんの周りにはいつも衿子さんの存在があるの。どこにいっても、何をしても、何を食べても」

そして彼女は手で顔を覆った。

「早く気づかないと、郭くんもっと傷ついちゃう!気づかないと絶対に後悔する!今、気づかせなきゃ。今、言わなきゃって思うのに、喉まで言葉がこみ上げるのに、言えないの。怖いの。…だって私、郭くんのこと好きなんだもん」
…さん?」

俺は彼女の変わりように戸惑った。…さっきまであんなににこにこ幸せそうにしていたのに、心の中ではこんなに思いつめていた…?

「ダメなの。気づかなきゃ!言わなきゃ!私と、郭くんとは違うの。今、言わなきゃダメなの。言いたくてもその人が居なければ言えないの。言えない後悔は、想像するよりも重いの。辛いの!…伝えたいのに、言えないの。私は卑劣だから、郭くんの手を離したくない。離したら帰ってこないかもしれないから…っ!」

俺の頭の中はこんがらがりそうだった。
一体、何が彼女を追い詰める?
一体、何が言いたいんだ?
俺は呆然と彼女を見守る事しかできなかった。

「…郭くんが、私に告白してくれた時、頭が真っ白になってこれでいいんだって思ったの。ああ、やっと衿子さんから私に気持ちを向けてくれたんだって。幸せだって。好きだった人が頭の中で残像として残るように、そうやって衿子さんを愛していくんだって。…ほら、過去に好きだった人は、好きなままでしょ?きっとそうやって衿子さんのことを想うんだって。……けど、それは思い違いだったの」

「思い違い?」

「私の頭の中は矛盾した事ばかりなの。一瞬前まで、その人の幸せを祈って自分が犠牲になってもいいって思うのに、次の瞬間には自分も幸せになりたいって思うの」
「…でも、それは普通の事じゃ…?」

俺にだって思い当たる節がある。
思わず胸がチクリと痛んだ。

「郭くんは…郭くんは、ちゃんと話さなきゃいけないの。このまま、終わっていいはずがないの。…だけど、怖い。怖いよ。衿子さんの所にいったまま帰ってこなくなりそうなんだもん!お互い嫌いになって別れたんじゃないんでしょ?そうだったら、きっともとの鞘に納まるかもしれないじゃない…っ!だって四年も同じ人を見つめてきたって…その時間の長さに…勝てないよ…無理だよぉ…」

そう言って彼女は泣き出した。くぐもった嗚咽が胸を締め付ける。
けれどどうしてか、俺は彼女の言葉が理解できない部分もあった。…俺は今日この人にあって、嫌いになる予定だった。そうじゃなきゃ、衿子の涙が報われないように思えたから。だから粗探しをするつもりだった。けれど、予想以上にこの人はいい人で、とてもじゃないけど嫌いにはなれそうになかった。

だって……――

「…俺さ。英士のあんな顔見た事ねぇよ」

彼女は俺の言葉にふと顔を上げた。
その顔は涙でぬれ、そして赤くなっていた。

「あんなにリラックスした顔の英士、見た事ない」
「だって…あれは、若菜くんが……」

俺は首を振った。

「俺が居たとしても、英士は衿子の前だとあんなにくつろいだ顔しねぇよ。笑ってたけど、何かを背負っているように窮屈そうに笑ってた」
「窮屈…?」
「俺さ…さんが何考えてるかさっぱりわかんねぇけど、さんも英士と話し合う必要があると思う」

でも、と彼女は自信無げに俯いた。

「俺が彼氏だったら…そうやって彼女に溜め込まれてるのは辛いぜ?きっと英士もそうだと思う」
「若菜くん…」
「…正直、俺、今日英士とさんの仲をぶっ壊しに来たんだけどなぁ…」

彼女は至極驚いたように目を大きくした。

「あれ?気づかなかった?」
「…全くこれっぽっちも」
「そっか…俺も今更、そんなのバカみたいだって思う」

もう何だか、どうでもよくなったというか。まあでも、俺が思う以上の収穫はあった。今はそれでよしと心から思える。泣き顔の彼女ににっこりと笑うと、彼女は戸惑ったようにおずおずと俺の様子を窺った。――ああ、英士も罪な奴。こんな子にこんな顔をさせて。

そう思っていると、公園の入り口辺りに見覚えのある姿を発見した。小さな公園だから、相手側もすぐに気づいたようだ。あんなに沈着冷静で名の通ってる奴が、汗だくで血相変えて……
……彼女は公園の入り口に背を向ける形になっていて、まだ気づいていないみたいだ。

俺は最後に、あいつに復讐することを思いついた。

とてもとてもささやかで、復讐だってことに気づかないかもしれないけど。

「それじゃあね、ちゃん!お邪魔虫は去るよ!」

そう言って、公園の入り口へと向かう。彼女は慌てて振り返り、そしてあいつの存在に気づくだろう。俺の隣を未だ血相を変えたままのあいつが通り過ぎる。一瞥を送られたが、別に怯むギリもないし、俺は悠々と口笛を吹きながら、公園が見えなくなる角まで歩いていった。



なあ、衿子。
俺、これで良かったと思うんだけど、どう思う?






back
やっとヨンサ以外に、主人公と絡む人間が出てきた…!(あっ…お母さん)アフター至上一番長い話だと思います(^^;)