エターナル
アフターイメージ






思い出はいつもキラキラ輝くのに、あの夏の日の事だけは、輝きを伴わない。








暗くて暑くて辛くて切なくて、涙がこんなに出るものだなんて、その時まで知らなかった。どうしてなんだろうと、私の思考はぐちゃぐちゃに絡まる。ナゼと問いたくても、その答えが返ってこないのは解っていた。だって、その問いに答えてくれる人がいないのだから。どんなに追い求めても、彼はいないんだ。ココに。だけど私の思考はナゼを繰り返す。…それは一種の自己防衛で、私という存在が壊れてしまわないように本能がそのぐちゃぐちゃの思考を繰り返さすんだ。

彼がいない。

その現実は酷く冷たく、絵空事のようだった。
だってつい昨日まで、彼は笑いココに居たのだ。ナゼそんな身近な人間がいなくなった事を易々と認める事ができるのだろうか…彼は笑ったんだ。そしてその優しい声で私を呼んだんだ。

、と。

世界中のどんな言葉をかき集めても、彼がただ一言私の名を呼ぶ事以上の素敵な言葉はないだろうと思えた。彼は優しかった。一人っ子の彼は、それはそれは私を大切に扱ってくれた。私はもう一人兄が出来た喜びと、それ以上の悦びに心がくすぐったくなる思いだった。…今思えば、その感情を何と呼ぶのかすぐにわかる。けれど、その当時の私には、その悦びを何というのかまったく見当もつかなかった。ただ彼がいることが嬉しかった。無条件で最上級の喜びだった。私はその幸せが続く事を祈らずにはいられなかった。“永遠”というものを信じたかった。未来永劫、この幸せが、彼がいてくれる喜びが続く事を心の底から祈っていたんだ……――





君がいた夏





汗だくの郭くんは怒っているようだった。つかつかと歩み寄るその足音まで怒りで溢れていた。安穏としていた夏の夕暮れが、一瞬にしてピリリと張り詰めた空気に変わった。

「ちょっと目を離した瞬間に二人は逃げ出して見失うし、おまけに携帯に電話しても二人とも電源切れてる」

郭くんが一歩一歩近づくたびに、張り詰めた空気が身を刺す。

「…ごめん、なさい」
「おまけに何話したかわかんないけど、君は泣いてるし、結人は悠々と口笛吹いて……」

そして郭くんはベンチに腰掛ける私の前に仁王立ちで構えた。

「……何、話してた?」

私は彼の威圧感に圧倒されながら、本当のことを話すべきかどうか考えあぐねた。
……いつもいつも私は臆病だ。言わなければいけない事があるのに、伝える事ができない。怖い、怖い。嫌われたらどうしよう……――っ!臆病風が私を取りまき、私はますます居心地の悪さを感じた。

「俺に言えないこと?」
「…ちがう」
「じゃ、何?」

郭くんの言葉が氷のように冷たい。
私は思わず身を守るように二の腕をさすった。…ああ嫌だ。怖い。
この一言を発したら、これから先私たちはどうなるんだろう。やっと実ったこの恋は、終わってしまうのかな?嫌われてしまうのかな。嫌だな。嫌だよ。もう失いたくないのに。…あんな思い、もう二度としたくないのに。
私は言葉を発するより前に、涙が零れそうになった。ああ、あの夏の日も、言葉より何より涙がとめどなく流れたな……あんなに悲しくて辛くて、身が千切れそうな思い。

私はぞっと鳥肌が立った。

身内からどんどんと冷えていく不思議な感覚にとらわれた。何かが急速に冷えていく…
私の鼓動は不規則に乱れ、私は段々と呼吸がしづらくなってきた。二の腕をさすっていたその手を胸倉に持ってきて、ぎゅっと握り締めた。――感覚が麻痺しそうだ。呼吸の音が遠くに聞こえる。段々と視界が濁ってきて、私は座っているのも苦しくなってきた。そしてぎゅっと胸倉を掴んで、私はうずくまった。

自分の呼吸が雑音を伴い、荒れていく……――
段々と手足が痺れてきて、体が麻痺してくようだった。そして苦しい呼吸と呼吸の合間に、とある映像がぼんやりと浮かんでくる。それは荒い呼吸を繰り返すたびに、だんだんと明確になっていく。そしてピントがあっていなかった映像が、ふとはっきりと目の前に広がった。そして私は苦しさで瞑っていた目を見開いた。鼻筋に脂汗が流れ落ちる。瞬きをするたびに汗がぽたぽたとまつげの先から零れていた。けれどまばたきを忘れた私の目に、脂汗が流れ込んでくる。

それはここ何年か思い出せなかった彼の顔で、私は射抜かれるように胸の痛みがドクリと体を強張らせる。
――そして私が体を強張らせた直後に、大きな力によって揺さぶられた。

「ちょ…っ!さん?!」

気がつくと私の目の前に郭くんの顔があり、そしてその郭くんは血相を変えて私を覗き込む。「郭くん」と呼びたいのに、荒い呼吸のせいで言葉を発する事が難しかった。私はぼうっと食い入るように間近の郭くんの顔を見つめた。揺すぶられるせいでもあり、白く混濁し始めた視界のせいでもあり、間近にあるはずの郭くんの顔がぼやけて見える。そして間近で呼ばれているはずなのに、その声が果てなく遠くこだまするように聞こえる。
やがて両肩が強く握られる感触がした。…痛いのかな?痺れた体には痛みはわからず、私はどんどんと混濁した意識が飛んでいきそうになる。――ああ、ダメ!まだ飛んじゃだめっ!

そして私は、呼吸の合間あいまにようやく言葉を発する事ができた。

「きゅ…救急、しゃは、呼ばない、で…?」

そういい終えるか終えないかで、私の意識は暗闇へとさらわれた。



* * *



彼は、2つ上の兄の友達だった。
兄は、現在私が通う学校に通っていて、そしてその彼も兄と同じ学校に通っていたのだった。その当時、私は片道一時間弱のエスカレーター式の女子校に通っていて、私が帰宅すると必ずと言っていいほど、彼が家にいた。…その時、私は十四歳で彼は十六歳だった。

「おっおかえりーっ」

玄関のドアを開けると、兄の間の抜けた声が響いた。手には大きなペットボトルとスナック菓子が抱え込まれていた。最初の頃は、ああまた彼が来ているんだと、さほど気にはしていなかったけれど、最近は家に帰ったら彼がいるかどうかドキマギしながら帰宅を急ぐのだった。中学時代の私は帰宅部で、友達の誘いもそこそこに家に帰るのが楽しみだった。…それが私の初恋だった。もっともその事に私自身気づくのが先で、だけど、周りの人間にはバレバレだったらしい。特に兄にはよくからかわれていたが、恋だと気づくまで、兄がなぜからかうのか私は理解が出来なかった。その日も例に例の如く、兄はにんまりとイヤらしい笑みを浮かべるのだった。

「友田今日も来てっぞーっ」

その一言がききたくて、自然と家へ帰る速度が速まる。
わかったと兄にあいづちを打つと私は急いで自分の部屋へと向かう。そして急いでクローゼットの中をあさって服を着る。そして鏡の前で前髪を念入りにチェックしてから兄の部屋へと向かう。ノックをすると兄の間の抜けた声が内側から響きそしてドアを開く。

ドアを開く、その一瞬の胸のときめき。
ドアの向こうは輝きに満ちていると信じていた。実際、輝きはそこにあった。

「こんにちはちゃん。お邪魔してます」

その人はフローリングの上に座り何かのサッカー雑誌を読んでいた。そして私が入ってきた事でゆっくりと頭を上げ微笑んだ。彼が纏う雰囲気は穏やかに温かく、最近では彼の声をきいてからやっと、家に帰ってきたんだという実感が湧くぐらいだ。 彼の隣で兄はにやにやとグラスにお茶をつぐ。グラスは3つ用意されている。
なんだかんだ言いつつも兄は優しかった。友達といる時に妹という存在は邪魔だろうに、そんな事はおくびにも出さず、否、にやにやとはするけれど。でも、私を迎え入れてくれた。勿論、その人も。

ちゃん、髪の毛にごみがついているよ?」

彼はふんわりと笑いながら私の髪に触れた。否、実際には髪についているごみを取った。
そんな些細な出来事にも私の心臓は直ぐ反応して、どきどきと頬が熱くなる。

――鏡であんなに入念にチェックしたのになぁ…

そんな私の思考を読んでか、兄のにやにやは増すばかりだった。 そしてむっとする私の前にグラスを差し出して、くすりと笑う。

「友田、今日おかずハンバーグらしいぜ?」

彼は、友田さんは一人っ子だった。その上、ご両親は離婚していてお父様に引き取られて、そしてそのお父様は海外に出張中で、だから家でご飯を食べるのが当たり前になっていた。母も世話好きな人だし、その血をついで兄も世話好きな人だった。友田さんは、一瞬ためらいを見せた。…これはいつもの事だけど彼は本当に謙虚な人で、いつも申し訳なさそうにかしこまる。

「いつもいつもありがとう…」
「気にするなよ!うちも好きでやってるんだし、な?」

兄に話を振られ、私は力いっぱい頷いた。友田さんがいるのはとても嬉しい。このまま遠慮して帰られてしまう方が悲しすぎる。そんな気持ちが自然とこもって、私は友田さんを食い入るように見つめた。

「ご飯食べましょうよ?」

一間置いて友田さんがため息をついた。そして次にはまたあの優しい微笑みを浮かべて、くしゃりと私の頭を撫でた。

ちゃんに言われてると断れないなぁ。断っちゃったら罪人になった気分になりそうだよ」
「だよなぁ!まあ、うちのはかわいいからなっ!」

…兄が私を厭わないのは、事実どちらかというとシスコンだからだ。
友田さんが頭を撫でた以上に、兄は私の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

「お兄ちゃんっ!」

私は抗議の声をあげて、兄の手を剥ぎ取ろうとした。けれど兄の方が力が勝っていて全く敵わず、もうなすがままに身をゆだねた。……そんな私たちの光景を彼はおかしそうに眺めていた。
兄の“煩わしい”愛情表現が終わると、友田さんはぽつりと少しだけ悲しそうに呟いた。

「仲がいいんだね、羨ましいよ」

彼の呟きをかき消すように、母の呼ぶ声が響いた。

「友田メシできたみたいだぜ」
「…ああ、うん」

そして彼は何事も無かったかのように立ち上がり、部屋を出て行く。
私はぼんやりとさっき彼が浮かべていた表情を考えた。そして兄の急かす声に一旦思考を止めて、あわてて部屋を出た。友田さんとご飯を食べれる。その当時の私の思考回路は単純であまり出来がよくなかった。



* * *



エスカレーター式の学校は、新しい人間関係というものにほぼ無縁に近かった。学年が上がるにつれて、飽きてくる。まあ、率直に言えばそんなものだった。女子校だったし、行事もあんまり賑わいを見せないし、それに校風が自由じゃなくて堅苦しかった。――そんな理由もあって私は高校受験をしたいと母に持ちかけた。…勿論、違う理由もあるけれど。母はしばらく考え込んで、ため息をついた。そして一言いいわよと承諾した。親としてはエスカレーターで安穏と大学まで上がっていって欲しいというのが願いだろうけれど、私の意志を尊重してくれる。うちはやりたい事を責任持ってやれという家訓というか、ある。だから弟の奏一は武蔵森でサッカーをしているし、兄は…まあ兄の好きなようにやっている。その一例が友田さんを家に呼び込むという事だ。

「受験するんだったらちゃんと勉強しなきゃ、どこにも入れないわよ?」
「わかってる!」
「…で、どこに入りたいの?」
「お兄ちゃんと同じ所…」
「それじゃあ、ものすごく勉強しないと入れないわね」
「…うん、わかってる」
「でもその前に…」
「…わかってます」

なぜ私がエスカレーター式の女子校に入ったのか。それは父親の一存だった。

女の子が生まれたら、絶対に女子校に入れる。しかもエスカレーター式の女子校に。大げさな話だけど、私は生まれながらに進むべき道を定められていたのだ。幼い頃の記憶は曖昧でほとんど覚えていないけど、いわゆるお受験のために塾に通っていたし、面接の際に何と言うべきか、両親共に何を言うべきか。家や塾で何度も練習した、らしい。そして迎えた受験の日。面接の前にまあいろいろ“受験”をしてから、なんだか薄暗い、面接官が逆光で顔が見えないそんな部屋で面接をしたような……両親の私の手を握る手が汗ばんでいたのは未だに覚えている。デパートでお受験用の服を買うのに何時間もかかったのも覚えている。そういった余計な事は覚えているけれど、実際受験勉強とかそういったことはほとんど覚えていない。覚えているのは、幼心に窮屈だという事ぐらいだ。

兄が自由に外で遊んでいる姿を見て、何度もごねて泣いた記憶もある。
その度に母親が切なそうにもう少しの辛抱よと慰めた記憶もある。
その母のお腹がほんの少し膨らんでいたのを覚えている。――弟を身ごもっていたのだ。

そんな母も大変な中、受験をすると言い張った父親。
この父を説得しなければ、私の自由は勝ち取れない。
てこずるのは目に見えていた。けれど、私は私の信念を曲げる気はさらさら無かった。

それを愛だというのだろうか。
それともアイデンティティの目覚めというのだろうか。

父と口論になって、幾日も言葉を交わさない日々が続いた。酷い時は顔を会わすのも嫌で、夕食をとらない日もあった。…でも実際は兄か母が私の部屋の前に軽食を置いていって、空腹に耐える…なんて事はなかった。

そしていつしか父が折れて「勝手にしなさい」と呟いた。
それは確か冷戦状態が定着しつつあった時の、朝の出来事。学校に行こうと玄関で靴を履いている時に父が背後でぼそりと呟いた。私が振り返ると父はネクタイを締めながらリビングに姿を消していった。

それは中2の、夏休み前の終業日の事だった。

それから塾通いを始めた。本当にあの時は頑張ったと思う。その当時の私の頭じゃ合格が難しいという、恥ずかしい状況だった。それまでなあなあに受けていた授業もキチンを身を入れるようになったし、塾が無い日も自習を怠らなかった。

「どうしてウチの学校に入りたいの?」

いつしか毎日のように遊びに来る友田さんが勉強を教えてくれるようになった頃、休憩時に尋ねられた。友田さんはわからないと頭をかしげた。

「だってちゃんの学校はエスカレーター式でこのまま行けば大学まで安泰じゃない?なのにどうして受験をしようなんて思ったの?」

私もまるで虚を突かれた。
どうしてその学校に入りたいって思ったんだろう?
外部受験するにしても、もっとランクを落とせば楽なのに。
どうして友田さんたちの学校にこだわるんだろう?

しばらく考えあぐねて、その時わかっている事をぽつりぽつり呟いた。

「…友田さんの言うとおり、楽なんだと思う、の。でも今つまらない。友達はたくさんいるけど、学校自体が好きじゃない。校則とか厳しいし…だから友田さんやお兄ちゃんが楽しそうに学校のことを話してるのが羨ましいなあって思った。…だからかな?」
「…でも、それだったらウチの学校じゃなくてもいいんじゃないかな?」

それは無理をして、進学校と呼ばれる学校を受験しなくてもいいのではないか?という意味が込められていた。私は一間置いてそれを理解して、なんだか恥ずかしくなって俯いてしまった。彼はあわてて自分の言葉を訂正しはじめた。

「気分を悪くしちゃったらごめん!そういう意味じゃないんだ!」
「……毎回、友田さんに勉強見てもらってたけど…迷惑でしたよね」
「違う違う!それは僕が好きでやってる事だし、ちゃんが気を揉まなくていいんだよ!」

でもと私は唇を噛んだ。自分がどうしてその学校に入りたいのか、モヤモヤとしてワカラナイ。別に有名大に入りたいからって事でその学校を希望しているわけでもないし、もしそうだったらエスカレーターで今の学校に居続ければいい。私は、何だか自分の思考回路で迷子になった気分だ。出口が見つからない。私は訳もわからず涙がこみ上げてきて、ポツリと握り締めていた手の甲に涙がこぼれた。
上手く言葉に出来ない歯がゆさ。
訳もわからないけどどうしてもその学校に入りたい理由。

私は多くの言葉を知らなかったから、泣くしかスベがなく、そしてその時心に燈っていた感情にも気づいていなかった。友田さんは私が泣いた事にギョッとした様子だった。

ちゃん?!」
「…ごめんなさい」

そして彼は困りながらもポンと私の頭に手を置いた。その手はとても温かった。私はつと顔を上げると、友田さんはにっこりと優しく微笑んだ。

「僕こそごめん。理由がどうあれ、ちゃんが僕たちと同じ学校に入れたら嬉しい」

そしてゆっくりと、その温かな手で頭を撫でる。

「…混乱させてごめん。ちゃんが1年生になったら僕は3年生だね。一年しか被らないかあ」

そして彼はふと考え込み、やがて悪戯っぽく口元を綻ばせ、それじゃあさと楽しげに提案してきた



* * *



合格発表の日、一人じゃとてもじゃないけれど行く事ができなくて、お兄ちゃんと友田さんについて来てもらった。掲示板に番号が書かれた大きな紙が貼られてる…なんて青春ドラマのようなものはなくて、正門付近に学校事務の人たちが受付よろしく待機していて、自分の受験番号を伝えて、その受験番号が記されたA4サイズの茶封筒と受け取るという、淡々とした事務作業だった。私に渡された茶封筒は分厚くて、少し離れた場所で待っていた兄達の所へ戻ると、中に入っている合格通知も見ずにおめでとうと祝福してくれた。

「なんでわかるの!?」

私はまだ自分が合格した事が信じられず、悴んで震える指で合格通知を取り出した。そこには正真正銘『合格』の文字が書かれていた。

「合格した人間の封筒は分厚いんだよ。ほら、合格通知以外にもいろんな書類が入ってるだろ?」

そう言われて封筒の中を覗き込むと本当に様々な書類が入っていた。

「不合格の人間のは薄っぺらいんだ。だからその茶封筒の厚さで合格したか、してないかわかるんだよ」

そう言われて辺りを見渡せば、笑っている人の封筒は厚くて、泣いている人の封筒は薄かった。
傍の生垣で女の子が泣いていた。それを男の子が慰めていた。その男の子の封筒は厚かった。陰になって見えないけれど、女の子の封筒は薄いんだろうな、あんなに悲痛そうに泣いているんだもん。
女の子は泣きじゃくっていて、男の子は一生懸命慰めようと必死な様子だった。彼氏彼女なのかな?2人で受験したのに女の子の方が落ちちゃったのかな?可哀想に。一緒の高校に通いたかっただろうに。

私は見も知らずのその人たちの光景に、胸がちくりと痛んだ。

そして私は兄に呼ばれて、その場を離れた。私も落ちていたらあんな風に泣きじゃくっていたのかな?合格した喜びより、ふとそんな疑問が心に浮かんだ。そしてそんな思考を吹き飛ばすように、また兄が私を急かすように呼んだ。私は2人の元へ小走りに向かい、そして両サイドから頭をくしゃくしゃにされた。二人が笑っていて、ようやく私も合格した喜びがこみ上げてきた三人ではしゃぎながら家路に向かい、その日行なわれる合格祝いパーティーが、受験お疲れ様パーティーにならずにすんだ事を大笑いした。
そんなこんなで、さっきの人たちの存在をすっかり頭の中から忘れ去った。



* * *



新しい制服が馴染んできて、友達も出来て、魔の期末試験が終わり、夏休みを待つばかりの頃。
私はほぼ日課になりつつあった図書館通いにその日も向かう途中だった。一年生の教室は4階にあって階段を下りていって、2階までおりると階段の傍にある職員室から友田さんが沈んだ顔をして出てきた。そして大きくため息をついて、つと顔を上げ私の存在に気づいた。
やあと笑う顔に覇気がなく、どうしたのだろうかと小走りに近寄った。

「どうしたんですか?」

私の問いかけに彼は力なくただ微笑むだけだった。

「どこか具合が悪いんですか?」
「…違うよ。ちゃんは今日も図書館に行く?」

友田さんの様子のおかしさに疑問を持ちつつ頷いた。
彼はそっかと呟き、そしてしばらく沈黙し始めた。
日課になっている図書館通いは、そこで友田さんと会うからだ。会って、図書館という事もあってあまり会話は出来ないけれど、本を読んだり宿題をしたりと、のんびり過ごす。ことに友田さんは受験生だから勉強しているのが主だ。そして閉館近くになって、一緒に帰る。そしてその帰り道、お互いに今日の出来事を話しながら帰る。それが日課で日常だった。

「今日は…図書館行かないんですか?」
「うぅん…そうだね。どうしようか…」

彼の煮え切らない言葉に益々、困惑した。

「友田さん?」

彼は落ち込んだ思案顔で、どこかに視線を投げていた。そして何か思いついたようにパッと視線を私へと向けてきた。その瞬間、私の胸はドキと強く反応して、そんな自分の反応にも驚いた。

「そうだ!ちゃん約束覚えてる?」
「約束、ですか?」
「そう…もう2年前ぐらいになるけれど」

2年前の約束。私はふと考え込み、そしてぱっと思い出し面白そうに笑っている友田さんに笑いかけた。

「思い出しました!」
「じゃあさ、その約束実行しない?」

そして2人で職員室前という事を忘れてはしゃぎながら計画を立てた。
そしてその日は図書館に寄らずに帰り、その帰り道その計画の詳しい日程を決めながら帰った。


友田さんがいれば、幸せだった。
笑うと、それは輝きだった。
それを人は恋だと言う。
けれど私が抱くこの感情が、他人や本やドラマがいう恋なのかさっぱり自信がなかったし、わからなかった。



* * *



そこは友田さんがお気に入りだと言った場所だった。ひと気のない展望台で、下を見渡せばぽつりぽつりと明かりが点在していて、空を見渡せば満点の星が輝いていた。

私たちは夏休みを迎えて数日後、計画を実行した。
それは私にとってドキドキする計画で、2人だけの秘密だった。
私は友達の家に泊まると家族に伝え、そして駅で友田さんと落ち合う。そして友田さんの引率の元いくつもの電車を乗り継ぎ、ようやく目的の場所にたどり着いた。すっかり日が暮れていて、そしてそこは小さなさびれた観光地で、駅前には古びた宿やお土産屋がまるで体を寄せ合うように密集していた。そしていくつかのお店のシャッターは下ろされていて、それはお店が潰れたのか、はたまた営業時間が終わったせいなのか、私にはわからなかった。そんな中、友田さんは迷うことなく、寂れた界隈の道を進んでいく。そしてその界隈から少し離れると家がぽつりと点在していて、街頭も少ない少し寂しい所に思えた。

けれど私は家族に嘘をついて2人で出掛けてきたドキドキ感と、期待感で胸がいっぱいだった。

その人家が点在する場所からもう少し歩くと高台へとつづく階段が顔を出してきた。階段の両脇には茫々と草木が生えていて、あまり人の手が入っていないようだった。その階段には外灯が情けないほどにしかなく、足元が心もとないので友田さんは携帯のライトを懐中電灯の代わりに使った。そして何度もうねりながらその階段を登ると、ぱっと展望台が広がった。息を落ち着けて辺りを見回すと、さびれていながらもそこは此処の観光名所のようだった。木製のベンチと錆びた望遠鏡と、展望台の切りだった方に安全用の手すりがあるだけだった。
友田さんはそのベンチに腰掛け、私もそれにならって隣に腰掛けた。

「都会の空だとこんなに星が見えないよね…」

私は夜空を見上げた。東京で見る星より、ここで見る星の方が断然輝いているように思えた。

「ここさ、まだ親父達が離婚する前に家族で旅行に来た場所なんだ……」

そう告白する友田さんの顔が暗がりの中でも、寂しそうだと見えた。

「それでさ、その時まだ俺が小さくってさ、親父に肩車してもらってこの星空を見たんだ」

いつも友田さんは自分の事を僕と言っているのに、その時は俺と言っていた。ご両親の離婚が、友田さんの何かを変えてしまったのだろうか。私は友田さんの言葉に耳を傾けた。

「あの時は、凄く幸せで…だから星空もすごく綺麗に見えた。…今も綺麗だけど、何倍も綺麗に見えたんだ」

その時、私は友田さんが泣いているのではと思った。暗がりでわからないけれど、たぶんきっと。

「母さん笑ってて、父さんも笑ってた。あんなに穏やかで幸せだったのは、あれが最後だったと思う」

友田さんが言葉を切ると、沈黙が流れた。その沈黙は私が喋る事を制しているように重たく、切ないものだった。私はどうしたらいいのか途方に暮れて、夜空を眺めた。

人の心の傷を曝け出されて、どうしていいのかわからない。私はまだ幼かった。
けれど幼いながらに、彼は私の慰めの言葉なんて期待していないようにも思えた。私も陳腐な慰めで彼を傷つけてしまいそうで。だから私は彼の手を握り締めた。…とても勇気のいる行動だった。彼は驚いたように私に視線を向けた。私は彼の視線を受ける事も出来ないぐらい緊張していて、私の視線はただその綺麗な満天の星空に向け続けた。そして彼は私の手を強く握りなおし、そして星空を眺めた。

零れ落ちてくるんじゃないかって思うほど、星がたくさんあって、手を伸ばせばつかめそうにも思えた。夏だけど、高地のせいか清涼な風が吹き、木々をざわつかせる。そんな中握り締めた手だけが温かくて、星が温かく思えるほど煌めいて、私は涙が零れそうになった。

私たちの所持金は帰りの電車賃ほどしかなくて、仕方なく展望台近くにあった無人の神社の軒下に身を寄せ合った。友田さんに言われたとおり厚手の長袖のものを持ってきて着てみたけれど、寒かった。私が両腕をさすっていると友田さんが寒い?と尋ねてきた。私は正直に頷くと友田さんは自分の荷物の中からタオルケットを取り出した。

「タオルケット?!」

私の驚いた様子に満足したのか、友田さんはにっこりと笑ってやや小さめなタオルケットを2人の肩に被せ、自然より体が密着する形になった。私の心臓の音が聞こえてしまいそうなほど近かった。緊張している私を知ってかしらずか、友田さんはのんびりとした口調で話し始めた。

「今日はありがとう」
「私、こそ、楽しかったです!」
「うん、楽しかったね」

そしてしばらく沈黙が流れた。虫の音があちこちから聞こえてきて、此処は一足先に秋を迎えたのかなとぼんやり思った。あの緊張してドキドキ忙しなかった心臓は、友田さんの温もりでまるで溶けていくかに穏やかに波打つのだった。そうしたら自然あくびがこぼれた。

「眠い?」
「はい…少しだけ」

正直、はしゃいだのと何度も電車を乗り継いだので結構疲れていた。そしてこの温かさ。
自然瞼が落ちてくる。

「…寝るといいよ。寝心地悪いかもしれないけど」

そうですねと言うのも難儀なほど私の眠気は全身に回っていた。そして友田さんは私の肩を抱いて、自分の肩に寄り掛かるように寄せた。私はもうなすがままに友田さんの肩に寄り掛かり、そして友田さんの温もりと匂いを胸いっぱいに感じた。寝心地は悪いけれど、きっと幸せな夢をみるだろうと眠たい頭でそう思った。



* * *



「それじゃあ」

朝、あの駅の始発の電車に乗り、そして行き同様何度も乗り継ぎをして地元の駅に着いた。もうすっかり夕方になっていて、影が長くなっていた。帰りの電車、やっぱりあんな所では充分な睡眠が取れるわけも無くて、二人で何度も寝過ごしそうになりながら、こくりこくりとしていた。

私の家と友田さんの家は、線路をはさんで反対側で、駅で別れることになった。

「あんなに綺麗な星を見れてよかったです」
「僕も。と見れて良かったよ」

その彼の言葉に私はドキッとした。
けれど彼はいつも通りに穏やかに微笑んだ。

「それじゃあ、さようなら」
「あっ、はい!さようなら」

彼は軽く手を挙げて、そして歩き始めた。私は彼の後姿が見えなくなるまでその場に佇み、そしてやがて見えなくなってから、家路に着いた。

このとき、本当の意味でのさようならだなんて、気づくわけもなくて、私はまたいつも通りに流れる日常を思い浮かべ、そしてさっきの彼の言葉にそわそわ浮きだった。



そう、あの日以来夏は輝きをなくした。
彼の優しい笑顔を見ることも無くなった。
さようならは、本当の意味でのさようならだった。
私と見れて良かったというなら、なぜ真実を話してくれなかったの?
彼が居なくなって、やっと私は自分の気持ちに気づいた。



なくしたものは大きかった。
永遠なんてないと思い知らされた――……






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ヒロインのトラウマの回想(?)でした。