風が、望まない現実を乗せて、前髪を弄んだ。












さらり、と透き通った風

アフターイメージ










蝉時雨。


校舎裏を埋め尽くした、常緑木々から蝉のじりじりした鳴き声が聞こえてくる。
熱気に満ちたこの教室とは暫くお別れになる、今日この日。私の意識は曖昧にこの教室内を漂っていた。成績表を返されても、待たされるその時間に友達と会話をしていても、何もかもが、私を目覚めさせてはくれなかった。


ごめんね、と彼は言った。


その静かな声、彼の目を伏した顔が、脳裏に焼きついて離れない。
それは、近くの公園だった。夕暮れで、昼間の暑さは無かったけれどやっぱり蒸し暑かった。彼とのメ−ル交換をしていたら、突然ここに呼び出された。こんなラッキ−な日もあるもんだ、と嬉々としてその公園に向かった。けれど向かっている途中で友達から電話がかかって暫く話し込んでしまったから、約束の時間より10分遅れて着いた。遅れてきた私に彼は、缶ジュ−スを差し出して、近くにあったベンチに腰掛けるように促した。走って火照った体に、ジュ−スはゆるゆると冷やすように喉を滑っていった。


「はぁ。冷たくておいしい!ありがとう英士」


一頻り飲んでから、彼にお礼を言った。けれど彼は、苦く笑うだけで何も言わなかった。


「英士?」


待たせたことに怒ったのかな、と首をかしげた。普段はそんなこと腹に据えかねる性分ではないけど、今日は腹の虫が悪いのかもしれない、と思って一応謝ってみることにした。


「待たせてごめんね?」


俯いた彼の顔を覗き込むように、見上げると彼は避けるように顔を背けた。


「そうじゃ…ないんだ」


そう言ったっきり彼は口を噤んでしまった。何かあるのだろうか。そう言えば彼は私の隣に座ることを避けて立ったままだ。


「何か言いたいことでもあるの…?」


彼が私の隣を避けるときは、何かあるときだ、と長年の付き合いで熟知している。英士と付き合ってかれこれ4年目になる。――本当に長い付き合いだ。


「英…士?」


そして、彼はゆっくりと背けた顔を向けてきた。苦々しくて、躊躇いがちなその顔を。


私はその顔を見て、一瞬にして事を悟った。
それだけ彼との付き合いも長かったし、最近の彼の行動もおかしかった。


「…別れよう」


「嫌よ」


彼がおかしいことは勘付いていても、はいそうですか、と言えるわけが無かった。


「絶対に嫌。別れない。なんで別れなきゃいけないの?」


「それは…」


「兎に角私は別れる気なんてないから」


私と英士はお互いに色々な“初めて”をした。手を繋いで帰るのも、デ−トするのも、キスをするのも……
私たちはお互いに笑いあって、泣きあって、怒りあって、色々乗り越えてきた。私と英士が別々の高校に進学するのも、彼がサッカ−で会えない行事も。


「けど、俺は…」


「嫌!絶対に嫌!!」


我慢して、我慢して、いつか切れてしまいそうな細い糸を頼みに私はここまでやってきた。彼が忙しい時に「会いたい」と言えば、切れてしまうのを解っているから我慢してきた。だから会える日には思いっきりわがままを通して甘える。そして甘えてきた私に英士は苦笑しながら受け止めてくれる。だから糸が切れるなんてことはなかったのに、私がたくさん我慢をして切らさないように頑張ってきたのに……!!


「ごめん。俺は疲れた」


私は彼が言った言葉が、一瞬理解出来なかった。そしてその言葉が脳内にインスト−ルされると、頭がある感情を打ち出してきた。


「は?疲れた?何が疲れたよ!私が一生懸命に頑張って、我慢してるのに!その言い草なんなの!!」


その感情は怒りだった。頭が真っ白になるほど頭にキた。


「英士がサッカ−で会えないって言われる度に我慢してきたのに……どれほど辛かったと思ってるの?!学校だって、ランク一つ下げてくれたら一緒の学校通えたんだよ?!たくさん我慢してるのに、『疲れた』ってないじゃない!そんなの自分勝手!私の気持ち無視してる!!」


一気に捲し上げて、自分の感情をぶちつけた。常日頃、寂しい、寂しいと遠まわしに伝えてはいたけど、こんなに率直に伝えたのは初めてだ。


「……英士は自分勝手よ!自分ばっかりじゃない。私が頑張ってるの、に。疲れた…なんて」


涙がポロポロ零れた。
彼がとんでもない卑怯者に思えてならなかった。それから暫く私は泣き続けた。……いつもなら、慰めてくれる彼の胸も、背をさする手も、今日は提供してくれなかった。そして彼は、私が落ち着いてきた頃に、静かに話し出した。いつもより、少し静かに。


「俺は、たくさんの迷惑をかけてきた、んだと思う。それに対しては感謝するし、謝るよ。けれど俺はこれで終わりにしたい、と思ってる。それは…お互いにそのほうがいいと思っているから」


「なにが、どういいのよ…」


鼻をすすりながらそう言うと、彼は躊躇いがちに目を伏した。


「一生懸命頑張って我慢してる…って言ったけど、俺だってそうしてたよ」


私はその言葉にどきりとさせられて、でもと反論した。


「でも、絶対私のほうが我慢してた…!」


絶対そうだ、という確信が私にはあった。
恋人たちが色めきあう季節に、私はこぶしを握りこんで、早く終わることを願った。街中に広がるお祝い雰囲気を独りで侘しく通り過ぎていった。その気持ちが、英士には解るだろうか。


「――俺だって、寂しかったよ。寂しくはないと思ってた?」


向けられた顔は、人を冷たくする嘲りと、憂いを帯びていた。
私はその顔に、ツンと胸を弾かれた。今まで彼は、そんな顔を見せたことはなかった。


英士は冬だ。


それは直感的にも、付き合ってからもずっと抱いていた思い。印象が、冬のように白く、冷たく、でも時折見せる温かさが、冬だと。


英士が、冬ならばきっと私は、夏だろう。
じりじりと焦がし、人を取り巻く熱風。
足して2で割ったらきっと頃合が良いだろうと、思っていた。だから、私たちは長かった。 私はゆっくりと目を瞑る。――ああ、今まさに私の季節だ。


人を焦がし、自分をも焦がす。


私はゆっくりと目を開き、彼の姿を視線で撫ぜる。
――解ってる。きっと私が地団駄を踏んでも、彼はもう“帰ってはこない”。私は、そういう人を好きになったんだ。自然、視界はぼやけて、喉が焼けるようだ。


「え…英士」


「うん…?」


「一つ、訊いていい?」


「…うん」


今の、今まで私のこと好きだった?


「他の…他の人、好きになった?」


英士は、彼はゆっくりと言葉を咀嚼するように黙り込み、やがてゆっくりと首を振った。


「…ごめん」


そして、私の涙はゆっくりと頬を伝う。


「そう…」


会えない日、思い描くのは彼の笑顔だった。どんなわがままも包み込んでくれた静かな、大好きだった笑顔。声が聞きたいのに、ぬくもりが欲しいのに、彼はいつも居ない。
会えない日を補うように、会える日、一日一日をいとおしんで、大切にしてきた。…きっと英士もそうだ。ささやかな幸せ、手を繋ぎ、他愛の無い会話。


今は、もう遠くなった、あの温もりたち。


パシリと乾いた音が今も、耳から離れない。あの時の手の痛さは、忘れられない。初めて、好きだった人を叩いたこの手。


もう、幸せだった、と言うしか私には残されていない、彼はもう私を拒絶してしまうから。本当に、もう終わりなの…?


――ああ、蝉が鳴く。
声を上げて泣くことが出来ない私の代わりに……



夢であって欲しい、あの一言。それでも、私はまだ彼が好き。けれど彼は、私を放していった……


夏は確実に、1人を焼き尽くした。
だから傷ついた冬が求めたものは、目の覚める夏ではなく、そっと目を瞑る春だった。


さようならのかわりに、風が吹いたあの日、直感的に悟ってしまった。
悲しいほど、長い付き合いのせいで……










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ピッチカ−トと記されての続き。そして続いていきます。名前変換なくてすいませんの前に、ヒロインが出てこない……!!