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アフターイメージ






――あの“ウソ”を今でも悔いているんだ……








「衿子がまだ好きなんだ」

確かに俺はさんにそう言った記憶がある。
……今更ながらにそう言ってしまったことを後悔している。

自分の感情に戸惑い、ただただ逃げるためだけに、あの嘘をついた。結局俺は、優柔不断な弱い人間なんだ。過去を受け入れるほど強くはなく、弱くも無いといきがって、そしてその二つの感情に板ばさみになって、結局俺は過去から逃げた。…それによってどれだけ彼女を傷つけてきたのだろう?

けれど彼女はそんな事をおくびにも出さず、穏やかに笑いそっかと頷いた。

そんな真っ直ぐな瞳の彼女を眩しいと思った。眩しくて俺には純粋すぎて、触れてしまえば穢してしまうんじゃないかって幻想も抱いた。否、今も抱いている。…結局俺はそうやって相手から逃げるんだ。いつもでも逃げ出せるような体勢で構え、そして逃げ場を確保している。――人と向き合うのが恐いんだ。

俺は臆病な人間だ。

だから彼女のその真っ直ぐな瞳の奥にしまいこんだ傷に見てみないふりをしていた。そっと翳るその眼差しの向こうに何が映し出されているのか、知ろうと歩み寄ろうとしていなかった。

ねえ、人はどうして悔やむって感情を持っているんだろう?
ああしたらよかったとか。
そんなの遅いのに…どうして後悔ばかりしてしまうんだろう……







繋ぐ手が君ならいいのに







――君が居なくなったって、未だに信じられないよ。
まぶたを閉じたその世界に君はいるというのに。
笑ったり怒ったり泣いたり、すねたり……

色んな君がいるのに。ねえ、どうして君は声を聞かせてくれないの?
その小さな手で俺の手を握ってくれないの?恥ずかしがってついばむような口付けをしてきたあの甘さは?甘えるように絡ませた腕は?柔らかな君の胸の中は?俺を見つめるあの綺麗に澄んだ瞳は?

どこにいったの?
君はどこにいったの?

俺は、恐る恐る目を開いた。

そこは君を失っても同じ世界が広がっていた。目の前を通り過ぎる人たちは楽しげに会話していたり、急ぎ足に通っていったり。のんびり通り過ぎたり……

君という唯一無二の人を失っても地球は、365日24時間突然変異を起こす事無く、俺を置き去りにして過ぎ行くばかりだった。そして俺の悲しみで明日という日が滅びる事もなく、絶望で太陽がなくなる事も無かった。
――ああどうして俺らはこんなにちっぽけなんだろう。

せめて世界がモノクロになってしまえばいいのに。青は今でも青で、君が好きだった色はそのまま、俺の目に映るんだ。君が好きだった曲は、君が居なくなってもハッピーエンドな曲のままで、唯一違うといえば、俺がその曲をハッピーエンドでなくなればいいのにと願うようになったぐらいだ。



「本当に好きなんだよ」



…ねえ、今更いっても遅いのかな?
君はこの言葉で1ミリでも心は動いてくれないのかな?



* * *



今まで十数年寝起きしてきた部屋の整理をした。必要なものは寮へと送るためにダンボールに詰め込まれていて、使う見込みのないものは置いていく事にした。もともと物を置かない主義のせいか、更に部屋が小ざっぱりと広く感じた。それと同時に一抹の寂しさも感じた。

慣れ親しんだものと別れようとしている。

いつかは誰でも来るそういった別れに、今まさ俺は体感している。
どうしようもない切なさや悲しさ、そして不思議な高揚感とさっぱりとした気持ち。
踏み出そうとする世界は未知で、それに対する恐怖心と、そして期待感。掌には乗り切れないほどのたくさんの感情が俺の身内で蠢く。
俺は自分の部屋なのに妙に清々しく片付いていてなんだか落ち着かない気分になった。
片付けたせいか部屋が広くなって暖房が行き届いていないように思う。そう、今は冬。今日は生憎雲行きが怪しくてアスファルトの色と世界が溶け込んでいるように思えた。そして鋭利な音を立てて風が吹く。

夏の日は空は鮮やかな青色で、大きな入道雲があってそれはそれは暑い日ざしが痛かった。あの時はその感覚に辟易していたけど、今は懐かしいし恋しい。――少し歩くだけで滝のように流れる暑さ。眩しいほどの陽射し。そして夕暮れになれば汗ばんだ体にそっと生ぬるい風が吹く……

その季節、その時に君といた。
君が笑って、傍らに居た。

俺は彼女の事を思い出し、いつの間にか拳が白くなるまで握り締めていた。泣きたい。なのに泣けない。18年間付き合ってきた俺の感情は素直ではなくて、感じるものをそのままに表す事が苦手な奴だった。



『逢いに行くから。隣に居ないなんて感じないほどメールも電話も手紙も送るから。貯金をいっぱいして逢いに行くから。寂しくなんて、させないから』



ねえ、さん。君はそう言ってくれたね。涙を精一杯堪えて言ってくれた。震える声で、別れの寂しさを抑えて笑ってくれた……っ!

応援するって言ったあの言葉はもう消してしまいたい?
だから応援してね?と不安げに尋ねたあの約束はもう俺にはして欲しくはない?

「泣きたいんだよ……」

俺は壁を殴りつけた。空虚な部屋の中でその鈍い音がこだまする。どんなに手が痛くなっても涙腺が緩む事はなく、その悔しさで俺は強く唇をかんだ。…鉄の味がした。涙の味より、あっさりとしているように思えた。


俺たちはいつも自分の心に蓋をして、無理して笑っていた。
時間が惜しくて、怒っているより悲しんでいるよりも笑っていたいと願ったから……
永遠の決別じゃないのに、それでも子どもの俺たちには大きすぎる距離だった。
だから、笑った。
涙を堪えて。
好きだよと呟く前に、ふざけあった。



* * *



「ともだ…さん?」

ぐったりと意識を失っていた彼女が、重そうにまぶたを上げた。


それは、結人がさんの手を引いて、俺から逃げた日。結人が何か肩の荷が降りたように悠々と闊歩し、そして彼女は涙で顔を濡らしていた。彼女に詰め寄った時、顔色が悪かった。けれど俺はその事を気にかけるよりも、自分の怒気のほうが勝っていた。

「ちょっと目を離した瞬間に二人は逃げ出して見失うし、おまけに携帯に電話しても二人とも電源切れてる」
「…ごめん、なさい」
「おまけに何話したかわかんないけど、君は泣いてるし、結人は悠々と口笛吹いて……」
「……何、話してた?」

彼女は視線を泳がせて、口ごもる。
そして話そうとしない彼女に腹立たしさを覚えた。

「俺に言えないこと?」
「…ちがう」
「じゃ、何?」

違うと否定した彼女だけれどその口調はあまりにも弱弱しく、俺に言えないことを結人に話していたと思うと、脳天がかっとする思いだった。そして彼女は俯き、小刻みに震えだした。当初、俺は泣いているのだろうと思い、こんな怒りをもったままじゃ感情的になるのは見え透いていたので、しばらく放っておこうと思った。けれどすすり泣く声も聞こえず、ただ小刻みに震え続ける彼女。俺は眉をひそめもう少しだけ様子を窺った。ふと俯いていた彼女の顔が見えた。陰になっていたけれど青白くて、そして苦しそうに目を強く瞑り顔いっぱいに汗が滲んでいた。俺は弾かれたように彼女の肩を揺さぶった。大丈夫かという問いかけに彼女はうつろな目線を向けるままで、俺は彼女の細い肩を握り締めた。汗が滲んでいてひやりと冷たかった。そしてそのうつろな目が閉じかけるその瞬間、彼女は呂律の回らない渇いた唇で、救急車を呼ぶなと言って、意識を失った。

そこから悶々と俺の地獄は続いた。

貧血なのだろうか、顔は青白い。呼吸も少し荒くて……
自分の膝の上に彼女の頭を乗せてそっと汗でこごった前髪を払う。冷たい汗の感覚が俺の心臓をひやりとさせた。息はしている。生きている。けれどあまりに血の気を感じさせない頬。どこもかしこも冷たい体。手をさすってみても目覚める気配もなく。むき出しの肩は夕暮れの風に当たり寒そうだ。俺は汗臭いと思いつつも自分のシャツを彼女にかけた。走り続け探し続けたその間の汗を充分というほど吸い込んだシャツ。申し訳ないと思いつつも今出来る最善がこれだと自分に言い聞かせた。――俺はそっとあたりに目配せた。閑静な住宅街。赤い空が段々と夜の藍色に染まりかけるそんな時頃。ひと気はなく、ただあるのはドコからともなく漂ってくる夕食の匂いと、そして家中に人が居るという気配。

俺はため息をついた。
身じろぎもせずただ眠り続ける彼女。そしてまた新たに確認できた事は“痩せた”と言う事。…いや、やつれたというべきなんだろうか。昼間は結人の存在で紛れて気づく事はなかったけれど、着実に彼女は痩せこけている。――どうして気づかなかったんだ……っ!俺は自分自身に腹が立った。掴んだあの肩の細さは以前触れたよりも断然細く、華奢で。昼間笑っていたあの顔も小さくそして白かった。
…ああ嫉妬とはこうも醜く、そして目の前の現実に気づかないものなのかっ?!

俺はもう一度深くため息をついた。
ああ、悔やむことが多すぎる……
両手で顔を塞ぎそして自分のため息に顔が包まれる。…どうして賢明にできていなのだろうか。まるでこうやって自分で自分の目を塞いで現実から逃げているだけじゃないか……

時間が惜しいから二人でいたい。
二人でいる時間が、笑っている時間が長ければいい。

だから未だに目を瞑っている事が多すぎる。
きっとさんは結人から衿子の事をきいたのだろう。俺の過去を聞いた。俺が一方的に終わらせたあの過去を。…けれど俺はどうだろう?時折さんが見せる傷ついた目に見てみぬふりをする。そして何も無いと言う様にくだらない話をして、そして彼女はその翳らせていた目を隠す。そうにっこりと微笑んで。

ねえ、さん。
君は俺にその過去を話したいの?
それともこうやって、無理して笑い続ける方がいいの?

俺は君の領域に踏み込んでいいの?ふと彼女の額にふれた。もう夜風となった風に当たり冷たくはなっていたけれど、先ほどより温もりを感じた。そして彼女のまぶたが微かに揺れる。歓喜のあまり俺は彼女の目と鼻の先まで顔を近づけた。ゆっくりと重そうに開かれる彼女のまぶた。そして夢と現をさまようぼんやりとした瞳で、そして渇いた唇で、彼女は囁いた。


「ともだ…さん?」


その囁きに彼女の希望が含まれていた。うつろな瞳にはそう願う色があり、その囁きはそうであって欲しいという渇望が含まれていた。そして彼女は、自身の顔の傍にあった俺の手を強く握り締めた。

「友田さん。よかった…ここに居たんだね……」

そして目覚めたばかりとは思えぬほど強く俺の手を握り締めた。――友田さんという人だと思って。

「急に居なくなるんだもん…よかった」

そして強く握り締めていた手がゆるゆると抜けていった。そこに温もりがあった事に安心したのか、彼女はまた眠りに着いた。



とても安心して、幸せそうな顔をして……――っ



* * *



――あれは俺が見た中で一番幸せそうな顔だった。
…ねえ、さん。君はあんなに幸せそうに眠りに着いたけれど、あの時の俺の絶望を知っている?次に目覚めた時はもうすっかり俺が知っている君になっていて、そして戸惑いながら俺とあたりを交互に視線を移したね。そして戸惑いながら謝ったね。ごめんなさいって。…いつも君から謝るよね。俺の急な予定で会えなくなっても、何か意見がぶつかりそうになるといつも、君が折れてごめんと謝って、終わってしまうんだよね。わがままいってごめんね。忙しいのにごめんねって。

ねえ、全然嬉しくないよ。

むしろ悲しくて虚しいだけだよ。俺たちの付き合いって上辺だけなんだって。水鳥がゆうゆうと泳いでいるように見えるかもしれないけれど、水面下だとじたばたとあくせくと足を動かして泳いでいるんだよ。

俺たちは時間が惜しいという口実で、ただ自分の醜い部分を見せ合っていないよね。

笑っていれば事は順調に進む。楽しい思い出が、遠く別れても励みになるって。

そんなの嘘だよ。虚像だよ。
そんなの間違ってるんだよ。物事全部が全部きれいなわけじゃないんだよ…!
辛いから楽しいって解るんだよ。苦しいから嬉しいって思えるんだよ。

俺たちは綺麗に舗装された道をただ歩いていただけで、傍にあるぬかるんだ道に進もうともしなかった。どちらに原因があるわけじゃなくて、ただ二人ともこれからおとずれる距離に怯え、別けれに恐れよけてきたんだ。



突き放したのは、俺だった。



そんな関係に嫌気が差した。決して彼女の事を嫌いになったわけじゃないけれど、俺たちは似たもの同士で臆病すぎる所が唯一嫌いだった。臆病だから彼女の過去を知ろうともしなかった。綺麗だったら綺麗のままでいいじゃないかと、逃げた。彼女が所望した“友田さんの手”が俺だったことも告げず、その事を語らず、ただ別れようと口にした。それから2週間もしないうちに。

2週間の間に学校は始まり、夏の暑さはまだ残っているけれどどこか秋を予感させるものを感じ始める頃だった。そして別れを切り出した場所は、俺たちの関係が始まったあの図書館で、彼女は瞳を見る見る大きくしていき、やがて伏せた。沈黙が流れ、そして彼女は吐息の混じりの囁きをそっとこぼした。

そして俺たちは終わった。

1ヶ月も経たない付き合いだった。短いようで長く、そして長いようで短い夏の出来事で、クラスメートたちは俺たちが付き合っていたことも知らず、ただ蝉がぽろりと死んでいくように終わった。

本当の苦しみが始まったのはその時からだった。

彼女は相変わらずクラスの中では穏やかに友人達に囲まれ談笑し、俺はそっとそれに横目で窺う。
あの甘えてくるような仕草も、それを恥じらいはにかんだ表情も、もう俺には見せない。郭くんと優しく呼ぶ声は無くなり、遠征で授業を休んだ時のノートのコピーもなくなった。後期になり彼女と俺は図書委員ではなくなり、あの声を潜めながら会話をしたあの場所に行く事も無くなり、そして俺はまたクラスから孤立した。…クラスから孤立することは元から諦めていたからいい。けれど、彼女のあのユーモア溢れる会話を聞けなくなったことが胸を苦しめた。

そして秋も深まり冬の気配が近づく頃、廊下の掲示板に彼女の推薦合格の張り出しがされていた。そっと人目をさけるようにひっそりと色んな張り出しの中に、彼女の名があった。 一歩先に大学が決まった彼女へのやっかみが起きなかったのは偏に彼女の人望なのだろうと思った。そして彼女の推薦合格の張り出しの隣に、俺のサンフレッチェ入団決定の紙が貼られた。彼女の大学合格よりも俺の入団決定の方が大きく張り出されていて、俺はなんだか可笑しくて虚しくて笑ってしまいそうになった。それからクラスの空気がガラリと変わり、より一層俺を腫れ物扱いするようになった。彼女の分のやっかみ全てが俺に向けられていると思えばそれはそれで幸せだと、ある種マゾヒストな考えにもなれた。



「衿子がまだ好きなんだ」



そう言って別れを切り出したとき、彼女の目には諦めに似た色が映っていた。そして彼女はそっかとため息交じりに呟いた。

ねえ、衿子、結人、一馬。この際誰でもいい。
どうして人はこんなにも愚かになってしまうんだろう…?

自分より精神的に弱いと思っていた衿子が着実に自分の足で進み始めたというのに、あの誓いにも似た手紙を送ってこれるほど強くなれたというのに、ねえどうして。俺は愚かなのだろう……あまりに愚かすぎて衿子に返事も書けないよ。「彼女と別れたよ、衿子を口実にして逃げたんだ」そんな馬鹿馬鹿しい事を書いて強くなろうとしている衿子に送れるわけが無い。それより、そんなみっともない事を言える訳が無い。

練習のたびに結人から「さん元気?」と訊かれるたびに、俺は罪悪感で心臓が止まりそうになるんだ。――言える訳が無い。こんな醜態、言える訳が無い。結人からの問いかけに俺はいつも「彼女は受験で忙しいから」という口実で逃げる。結人は疑う事も無くそうだよなと納得して、違う話題をふってくる。

俺は最近、一秒後この苦しさで心臓が止まってしまえばいいのにと願うようになった。

こんな健康体に有り得ない話だけれど、そう願って止まなくなった。
明日なんて来なければいい、そう思いつつも幼い頃からの夢が着実に近づいてきて、早く明日になればいいと矛盾した考えが頭の中でごちゃごちゃに入り混じる。


結局は俺の自分勝手な話で、神さまが居るのなら雷でも落としてこの命を終わらせろ。それが今の俺に相応しいなら俺は大いに喜んでやるよ。……無論、有り得ない話で、虚しいほど笑ってしまう。


――ああ冬は寒い。窓には息が当たり白く曇る。
本当に俺は馬鹿だ。どう罵られても構わない。

ねえだからさん。
この愚かな嫉妬深い俺を許してください……


たとえあなたの温もりを生涯得る事を禁じられても。
お願いだから。
お願いだから……


ああ、泣きたい。
そう思うのに、俺の目からはひと粒さえも涙が零れない……――っ







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