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アフターイメージ






――なぁ英士……








諦めるって選択が楽だった。たとえ心に言いようの無い痛みを感じても、諦めた方が、楽だった。みじめだと自分を悲しまずに済めたから。そして俺はその悲しみを心のどこかの引き出しにそっとしまいこむ。その引き出しの開け方は覚えていても、引き出しの場所を忘れてしまえば、傷つく事がないと思っていたから。――そう信じていた。けれど現実は違った。

何か新しい事に踏み込んだ時、ふとした瞬間に引き出しが開いてしまう。場所を忘れたつもりでも、無意識下の中ではいつでも的確にその場所をおさえている。“痛い”その悲しい思い出が頭に過ぎり、だから俺はいつも戸惑ってお門違いな事をしでかして上手くいかなくなって、そして結局諦める。

何人もの悲しむ顔を見てきた。
呆然と立ち尽くす俺を覚えている。

そして新たに痛みが生まれ、そして引き出しに詰め込む。…もう俺の引き出しはぱんぱんで無理矢理に詰め込まなければ、入らないようになってきた。その引き出しの中が重過ぎて、動けなくなりそうになった。その引き出しを開けてしまえば、俺はもう二度と前を向いて歩けなくなりそうで、恐くて恐くて場所の在り処を忘れようと懸命になった。だからサッカーにのめり込んで、そんな傷を思い出さないぐらい夢中になって忘れようと心がけた。周りを見ない。ただボールだけを追いかける。そうしていれば痛む心を紛らわせると思っていた。

なのに――……っ

時々、夢中に動き回ってくたくたに疲れきって体は眠りを求めるのに、心が悲鳴をあげるんだ。どうしようもない、言葉にするなら虚無感に近いほどの悲しみが全身を襲って、痛くて痛すぎて、どこが痛いのか解らないほど痛すぎて、涙もでなくて、ただ怯え震える時が来る。眠ろうと無理矢理目を瞑ると、そのまぶたに悲しい記憶がちらついて、頭痛すらしてくる。


――限界だった……


欲しいものはわかっていた。わかっていたけれど、苦しくて傷つくのが恐くて動けなかった。『愛して欲しい』なんて口が裂けてもいえなかった。…今でもいえない。それは悲しみのせいじゃない。ただ気恥ずかしいだけ。だけどいつかこの仕様も無いプライドのせいで、彼女を傷つけてしまうかもしれない。また失ってしまうかもしれない。俺、気づいたんだ。幸せになればなるほど、勇気が必要になってくるのだって。自分だけ幸せを噛み締めていれば良い訳じゃない。相手も、幸せだと感じてもらわなければ意味が無いんだ。だから行動しなきゃいけないんだ。世の中“無償の愛”ってそんなに無いと思う。ましてやこうやって付き合うとかそういった関係ではありえないと思う。ギブアンドテイク。俺は幸せになりたいから勇気を振り絞る。そしてその勇気を振り絞った結果、彼女と二人笑い会える。同様に彼女も俺を幸福にしてくれるために、何かしら頑張ってくれる。

そして俺達の世界は丸く幸せになるんだ。

足らないものがあって当たり前。
けれど充分に満たされるものもある。

きっとそれを幸せと、満足と、愛だと呼ぶのだと思う。つまるところ“幸せ”と感じる心の出所は一緒なのだと思う。満足と感じると幸せだし、幸せだと思えば満足なんだ。もちろん幸せだからこそ満たされない部分もある。それは足らない部分が訴えてくるんだ。まだ足りない。もっと欲しいと。
…だけど俺はそういった心の飢餓感は大切だと思う。現状で満足しないためにその飢餓感は必要だ。人は貪欲だ。幸せのステージが増えれば増えるほど、心は腹が減ったとしきりに訴えてくる。満腹感なんか無い。満たされたと同時に、もっとと心は欲しがる。

けれど先人はこう言った“腹八分目が健康にいい”。あれは胃だけの話ではないと俺は思う。

心も“腹八分目”を心がけるべきだと思う。…それは妥協しているわけではなくて、与えられたらこちらからも与える。そんなギブアンドテイクをしていると自然と80%ぐらいになっていると思う。何が、と尋ねられても解らないけど、その80%は満足感だったり飢餓感だった。まぁそういったところだと思う。それに常に100%なんて無理だと思う。これは何事にもだ。サッカーとか100%超えて120%出さなきゃいけない時もある。だけど自分では100%出しているつもりでも本当はそこまで出せてなくて、それは自分でも少し感じてたりする。全力を出す事が恥ずかしいわけでもないし、そういった話ではないと思う。常に全力を振り絞っていたらきっと壊れてしまう。100%とか120%とか出さないといけない時も、無意識の中で自分を庇っているのだとおもう。

きっとみんな出さないといけない力に近づくために努力をするのだと思う。その努力は1%でもその100%に近づくための努力だ。――つまりは歩み寄るという努力だ。

自分の中でも葛藤が起きて自分が自分から離れていってしまう事がある。自分の気持ちに嘘をついて誤魔化して、それを繰り返していくうちに本当の気持ちがわからなくなって。…これは少し前の俺の事ともいえる。本当の自分に近づくためにも歩みよる努力をしなければならないのに、ましてや他の人と分かち合うためにはそれ以上の熱意や力を持たなければ歩み寄れないのだと思う。

親でも彼女でも友達でも“理解しよう”という心がなければ分かち合えない。分かち合うために人は“言葉”という武器を得たのだと思う。「言わなければ解らないんだよ」「言ってくれなきゃ解らないんだよ」。表情一つでその人の感情を読み取れといわれても中々に難しい。たとえばその人が笑っていたとしてもその笑顔が本当に嬉しくて笑っているのか、それとも愛想で笑っているだけなのか、悲しみを誤魔化すために笑っているのか。どれが本当なのか、それこそ笑っている本人すらわからない事をただ表情だけで理解しろと言われても難しい話だ。

……あー、何だか自分でも言ってる事訳わかんなくなってきた。

とにかく人は分かち合う努力を怠ってはいけないって事だ、うん。なんか説教くさいな俺。でも怠ってきた俺だから、俺みたいに後悔はしてほしくないんだよ。英士でも結人でも衿子でも。誰でも。身近な人が傷つく顔を俺は見たくないんだ。…あんなに悲しい事は無いって思えるほど辛いんだ。


みんなには笑ってて欲しいんだ。


ただそれだけ。







ただ透明に世界は沈む







「英士…疲れてるのか?」

ロッサのロッカールームでユニフォームに着替えている時、英士がいつもより着替えるペースが明らかに遅くて、あと10分もしない内にウォーミングアップが始まるってのにため息ばっかりついて中々着替えようとはしなかった。英士は俺の言葉に驚いたようで勢いよく振り返った。

「俺、疲れてるように見える?」
「…何となく。違ったか?」
「別に…ちょっと」

ちょっとと不自然に言葉を切って英士はそれからペースをあげて着替え始めた。英士の不自然な言葉に首をかしげながらも俺も靴紐を結ぶのに“ちょっと”だけ手間取った。…いつものことだ。

「そういえば、結人は?」
「…聞いてないのか?今日がガンバとの契約日だぞ」

そして英士は少し間を置いてそっかと呟いた。
…なんだか今日の英士はおかしい。
さっき不自然に言葉を切ったのも、結人の大事な契約日を忘れてるのも。いつもの英士ならまず無い事だ。何だか腑に落ちない。

「…やっぱり疲れてるんじゃないか英士?」
「そうかもね……」

季節の変わり目だし疲れてるのかも。英士は覇気のない笑顔でそう答えた。
ますます腑に落ちないと首をかしげた。
英士は疲れたりするとちょっとイライラして、それで結人に辛口で絡んだりする。でもそうやって絡む結人がいないからこんなに覇気のない表情をしているんだろうか?

「何かあったのか…?」
「……別に」

その一間置いて歯切れ悪く発せられた言葉に、何かあったんだと俺は確信した。
なにせ英士とは長い付き合いだ。…変な話、彼女よりも英士や結人と歩み寄ろうとした努力の方が勝っているのだ。幼馴染だし、夢も同じだし。臭い話“絆は深い”はずだ。

「…そう言えば、衿子とこの前話したんだけどさ、結構振り切れてたよ。強くなったな衿子」
「そっか…よかった」
「うん。だから英士はもう罪悪感とか感じなくてもいいんじゃないか?衿子も前に進もうとしてるし。…そうだ今度、結人の契約祝いを兼ねてパーッとやろうぜ、パーッと。ほら英士も彼女呼んでさ…俺も、呼ぶ、から、さ…」

何だか自分で言ってても恥ずかしくなってきて、照れ隠しに笑って英士の方に視線を向けた。
そうすると、英士はそっかと笑った。
その時、俺は物凄い罪悪感を感じた。胸がきりきりと痛くて、呼吸をするのも苦しいほど。

「え、英士?」
「何…一馬?」

――なんでお前、そんな泣きそうな面して笑ってるんだ?

「やっぱ何かあったのか?」
「……一馬らしくないね、そんなに詮索するなんて」

今日結人がいないから結人の役もやってるの?
そんな皮肉が、英士に何かあったのだと明確に表してるようだった。
それも結構深刻じゃないのかってほど。皮肉を言う割には覇気がなくて、まるでその皮肉を自分に言ってるような。自虐的な雰囲気を感じた。

「え、衿子の事はもう本当に気にしなくて、平気だと思うぞ…?」
「衿子は関係ないでしょ」

ぴしゃりと畳み掛けられて、俺は怯んで口を噤んだ。
そしてしばらく嫌な沈黙が流れた。
カチカチと時計の規則的な音だけが流れて、時間が1秒また1秒と流れるたびに重さが増しているようだ。――本当に何なんだ?沈黙の痛さと英士の腑に落ちない態度に俺の気持ちも沈んでいく。

「…ごめん一馬。やっぱり疲れてるみたいだ」

英士は深く溜息をついた。
ため息をついても気持ちの重さは変わらないようで、やっぱり弱弱しく笑った。

「結人帰ってきたらパーッとやろうか。もうそろそろ自由に3人で会う機会なんて減るでしょ。だからやれる時にやっとこう」
「そ、だな」
「……一馬の彼女にも会っておきたいし、興味あるよ。こんなプライドばっかり高いヘタレサッカー馬鹿に告白した寛大な彼女を」
「英士だってサッカー馬鹿だろうがっ!俺だってこんな嫌味な英士の彼女になった人に会ってみたいよ。さぞかし心が菩薩のような人なんだろうな」

衿子は「春のように穏やかそうな子」と言ってたし、結人も「お人よし過ぎるいい子」だと言ってた。思えば英士の彼女に会ってないのって俺だけだし。なにしろ衿子と別れてから間もない英士と付き合い始めた彼女に興味がある。――あんな劇的な事をしでかした本人に。

時計を見たらそろそろ始まる時間帯だ。ロッカールームにももう俺と英士しかいない。「そろそろ行こうぜ」と英士の肩を叩いたその時。

その時見た英士の顔が、今にも泣き出しそうな面で、でも口元は皮肉に歪めていた。

「英士?」

英士はそんな面で、悲しくて泣きそうなのか可笑しくて笑い出しそうなのか、肩を震わせた。
そして視線を上げたその目が、強くて、そして哀しみに満ちていた。

「優しい人だったよ」
「え?」
「…本当に優しい人だった」
「だった?」
「……そう“だった”」

それってどういう意味だと言い差した所で、英士は俺の手を振り払ってドア付近まで歩いていった。

「…結人に言うと、結人経由で衿子に伝わっちゃうから言わないでよ」

そして英士はゆっくり振り返った。
その表情は男のくせして透き通るまでに綺麗に微笑んだ。
――何色にも染まれないのが悲しいのだと訴えるように。


「別れたんだ」


こんな英士の姿を今までに見たことは無かった。
英士はふと自嘲的な笑みを残して、拒絶するようにドアを閉めた。
残された俺は、時計の音ばかり響くこの部屋で呆然と立ち尽くした。







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