アフターイメージ 君が居るべき所はそっちじゃないよ――っ! きっと俺はいつまでも覚えているだろう。 こんなにも人を傷つけて、そして同時に自分をも傷つけたあの日々を。 …だけどこんなに人を好きになれるとは思わなかった。 俺は自分自身の事を淡白な男だとおもっていたから。 だからこんなにも想いで胸を熱くできるとは、自分自身でも思わなかった。 目を覚ましてオフィーリア 彼女の、さんの瞳から涙が零れ落ちる。 「久しぶり、郭くん」 微笑みはいつしか消え、言葉を紡ぐその唇は震え、そして見る見るうちに彼女は顔色を失っていく。 ――まるで絶望しているように。 「なんで…」 押し潰れた声がようやく出た。空気をと喘ぐように。 「なんで泣くの…」 彼女から伝わる悲壮感に、俺も絶望しそうだ。 ――ああ、求めていたのは俺だけだったのか。 恋しさに思いを募らせたのも、苦しんだのも、結局は俺ひとり。…今でさえ、この胸は忙しなく彼女を求めているというのに。 「…そんなに嫌だったかな」 ごめん。 悲しくて情けなくて、涙より笑いが零れる。 ……ああそうだった。いらないと捨てたのは俺だったのに。 一体俺は何を期待していたのだろう。 いくら優しいさんでも、捨てられたら腹が立つに決まっている。そうだ、彼女だって人間だ。そんな仕打ちをされて、優しく居られるわけが無い。ああ、そうだ。――そうだよ、いよいよ俺の思考回路も末期だな。全てが自分の都合の良い方向に動くわけがないのに。そこまで考えが至らなかったのは、浮かれていたせい。 さんにあえて、浮かれていた。 「…気分を悪くさせて、ごめん。もう帰るところかな。俺も職員室に用があるから」 逃げるようにまくし立てて、いまだ涙を呆然と流し続ける彼女の脇を通り過ぎた。 ――ああ俺は、いつまで経っても最低な人間だ。 自分の保身ばかり考える。思い通りにならなければ、逃げる。 ふと、通り過ぎる際、ふわりと柔らかい匂いがした。 思い出よりも優しい彼女の匂い。甘い春のような匂い。 ――胸がキリリと軋んで痛む。 思わず奥歯を噛み締めて、あふれ出しそうな思いを押し殺す。 今にも彼女を強く抱きしめたくなるこの思いを。 いつもより乱暴に足音を刻む。――苛立ちを物にぶつける、それはまだ俺が大人になれていない証拠だ。それすら腹立たしくて、落ち着かせるために深く息を吸った。 ――現状は何一つとして変わってはいないけど。 職員室の入り口の一歩手前で立ち止まる。ヒタヒタと自分の足音が消え、音が消える。扉一枚向こうに大勢の人が居るというのに、まるで世界から二人だけ隔離されている気分だ。……俺とさん。 だけどそうだったらどんなにいいだろう。これは全くもって俺のエゴだけど。ずっと二人でいられたら、確実に幸せになれる人間が、一人いる。本物じゃないかもしれないけど、それでも俺は幸せだ。 「久しぶりに会えて、俺は嬉しかったよ…」 たとえ前のように抱きしめたり、キスを出来なくても、彼女といるだけで、嬉しくなるんだ。 だから… 「もうきっと会うことはないから。だから最後に」 俺は笑みを浮かべる。絶望の中でさえ、笑えるだろう。 だってさんがいる。 もう二度と手に入らない幸せを、知っている。 ふと笑いかけたさんはいまだに顔色を失っていて、そして呆然と俺を見つめていた。その瞳が絶望に染められていても、俺は幸せだ。だってそれだけ彼女の中に俺と言う存在が刻まれているのだから。――俺はとうとう綺麗な幸せを捨てた。汚い幸せでも、それでもいい。嘘でもいい。欺瞞でもいい。 彼女を二度と手に入れる事が出来ないなら、それでも構わない。 「衿子とよりを戻すって言ったのは嘘。俺は今も昔も、さんが好きだよ」 ハッとさんは肩を震わせて、曇らせていた目をみるみる見開いた。 君のその綺麗な瞳に汚い俺を映して。そしてその柔らかな温かい胸に、刻み込んで。 「バイバイ、さん」 俺がいたって存在を、深く深く君の心に傷をつけて――っ! そしてもう一度、彼女に微笑みかけて、扉に手をかけた。 そして俺は、逃げ出した。 春の匂いがする世界から。 純粋に臆病に彼女を想っていた、惨めな昔の自分から。 足を踏み入れた職員室はむっとする暖房の空気とコーヒの匂いが俺を包む。 ああそうだ、俺が生きる世界は苦い匂いがするんだ。 甘い春の匂いは俺には似合わない。 「失礼します」 そして俺は扉を閉めた。 back |