アフターイメージ 何も知らなかった私は、そう思っていた。 ぽつりと残された私、の体温は急速に冷えていく。 ――ああやっぱり私は失ったまま。望んでも得られず、そして取り残される。 全部がぐちゃぐちゃで曖昧で。 とりどりの出来事に色が咲くことはなく、 笑った事も泣いた事も。苦しくて逃げ出したくて、でもやっぱり隣に居たくて。 そんな思いも出来事も。 表面上を滑っていた私たちの間に色なんてつかない。 ついたとしたらそれはきっと、傷跡。白地に爪を立てて、お互いを傷つけた痕。 そこから血が流れるわけでなく、ただ透明な涙が零れ落ちた。 だから私たちはきっと白い世界にいたんだ。 冷たくて無機質で、何も無くて。でも不思議と居心地が良くて。 ……そう、何も無い白のはずなのに。 この両腕が、胸が、彼の温もりを抱きしめたかった。 愛しいという思いが私だけでも、彼の吐息を全身で皮膚で感情全てで抱きしめたい。愚かな私は彼を欲する。ただ一時でもいい。何でもいいから彼の痕跡を残したいと渇望する。本能が求めて、感情が苦しいほど愛しいと叫んで。 ――気づくのが遅すぎた。 でもやっぱり私は郭くんが愛しいんだ。 冬の廊下は上履きの下からじわりじわりと冷たさが侵食する。 私はついさっきまで彼が立っていた廊下にしゃがみ込み、そっと触れた。温もりがあるわけがないけど、彼がいた。それが愛しかった。指先に感じるのは砂埃の感触。ざわりとしたその感触が私にはお似合いだ。いまだ流れる落ちる涙だけが温かくて、そしてぽたりと涙が廊下に落ちた。 ――彼が居た。私がここにいた。それを証明するかに涙がじわりとほこりを含んで滲む。 徐に立ち上がれば血液循環が上手くいかずくらりと視界が揺れた。声を上げる暇もなく、足から重力に引かれていく。踏ん張る事も叶わず、 傾いたからだが無意識に腕を抱いて守ろうとする。でもやっぱり上手くいかなくて膝から崩れ落ちた。 むき出しの膝が廊下にこすれ、ぴりりと冷たいのに熱くなる。無音だった世界にドサリと醜い音が轟く。それまで静寂で、郭くんが居た時は、凛と澄んでいたのに。それは私の思い込み。 でもそれでもいい。彼が居るだけで世界が変わる。息苦しい世界の空気が澄んで、血が通っているのがよくわかるほど鼓動が激しくなって、そのせいで呼吸が浅くなる。でも不思議と不快な息苦しさはないんだ。もっともっとと肺が急いでその空気を吸いたがる。そしてみるみるうちに私の体温は上昇していって、特に頬が痛いほど火照る。 幸せだった。 愚かな事に、いろいろ欲が出て本質を忘れてしまった。 ただ郭くんがいる。笑ってくれる。好きだと、照れる。 ――それが愛しかったのに。 ふつりと音が、目の前が霞んでいく。 意識が途切れようとしている。そして同時に体中の力が抜けていく。 ――ああこの感じ、いつかも感じた事がある。 いつだったっけ。 意思とは裏腹に、瞼が鉛のように落ちる。 ――ああ、そうだ。これはあの夏の日の…… 若菜くんと郭くんと。私が泣いて、若菜くんを困らせて。郭くんが怒って。 ……あの時の郭くんは素直に感情を表していた。 いつも私たちは、自分の感情をオブラートに包んで接していたのに。あの時の郭くんは誰の目から見ても怒っていて、そして少し途方にくれた風にも見えた。怒りを露にした彼は、いつもより幼くて。そんな所に同い年だなんて再確認させられた。 いろいろ思い返せば思い返すほど、郭くんという人間が少しだけ解ったような…… ザワリと皮膚がこすれ破ける感触。 廊下の床に膝がこすれ、そして肩もその冷たい衝撃を感じた。 最後に身体が弾んだのを覚えている。 グワンと冷たい空気を切って呻った。 そして目の奥が引き攣って、鼻の奥で熱い塊のようなものを感じた。 ゴンと鈍い音と稲妻の様な衝撃が私の頭を貫く。 ――私はどこか自分が倒れ落ちる音を遠くで聞いた。……そんな気がした。 世界が速度を落として 秋の頃。それは街中の木々が色づいた頃。 私は駅で待ち合わせをしていた。 携帯で時間を見れば約束の時間より5分ほど早かった。……5分なんて微妙な時間を潰す方が難しいので、私はそのまま待ち合わせ場所に足を進めた。陽射しは穏やかだけど、風が吹けば冷たい冬の予感を感じた。それが少し心を落ち着かなくさせる。 秋と言うにはすこし冷たくて、冬と言うにはまだまだ暖かい。 不安定な季節せいだ。 私はそっと独りごちた。 だからこんなに気持ちが落ち着かないんだ。 人ごみを潜り抜け、俯きながら足を進める。――なんだか嫌な予感がする。握り締めた掌はジトリと汗の感触で不快だ。心が落ち着かなくて戻りたいと、家に帰りたいと心拍数をあげる。 さして混んでもいないメインストリートを抜け、駅の改札口に近づく頃、私の呼吸は上がっていた。 そして徐に下げていた目線をあげると、その視線の向こうに彼が居た。 彼も気づいたのか少しだけ驚いたそぶりをみせて、そしてやんわりと微笑った。 「ちゃんっ!」 彼の声は澄んでいて、そして人込みでも耳に通る。 私は怯える心を抑えつけ、彼に近づく。 側によると益々彼は笑みを強めて、口角を上げる。 「久しぶりだね、ちゃん」 「……お久しぶりです」 やっとの思いで言葉を発する。 喉が震える、口元もかすかに震えている。 自然と彼を見上げる形になった。そしてそこにあった彼の瞳が少し翳っていた。 「…本当に久しぶりだ」 そうですね、と言葉になって彼に届いたどうか定かでない。けれど彼はそんな事を気にする風もなく、なんども久しぶりだと呟いていた。 「立ち話もなんだし、どこかいかない?」 そう言いながら彼は既に歩き始めた。 私はそれを追いかけるように、立ち竦む足を叱咤して小走りに追いかけた。彼は私が近づくとどこがいい?と笑った。 どこに行きたいとか、私の脳はそんな簡単なことさえ考えられなくなっていた。しばし無言でいると彼は僕が決めていいかな?と、もう決定事項を告げるようにまた笑った。……有無を言わせないそんな笑み。私は思わずひゅっと鋭く息を吸い込んだ。 「お任せします」 そう、じゃああそこにしよう。と彼は人通りから少し外れた一軒の古びた喫茶店を指差した。……いつの間にかこんなところまで来ていたのか。 ドクドクと鼓動が入り乱れる。 気づけば私は、左胸の前で強く両手を握り締めていた。――まるで己を守るように。 彼が喫茶店のドアを開けている時、私の膝はカクカクと笑い始めた。 「さあどうぞ、ちゃん」 彼はにっこりと笑い、中に入るように促す。 「…ありがとうございます」 ありがとうございます、友田さん。 彼は口元の笑みを深めた。 その時、私は気づいた。 ――彼の目が一切笑っていない事を。 back |