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アフターイメージ






愛しているよ。
――たとえ世界を敵にまわしても……
そんなドラマみたいな言葉を君に言いたかった。




ふんわりとよそゆきの笑みを担任に向ける。その間、担任の教師は聞き飽きた賞賛の言葉を俺に浴びせる。 きっと、俺たちを取り巻くオーラを色で譬えるならブラックコーヒーの、あの黒さだと思う。
確かに職員室内にコーヒーの匂いが漂ってる事も関係しているかもしれない。
苦くて黒くて、底が見えない。取り巻く社会を濃厚に凝縮されている。担任のそのヤニで黄ばんだ前歯や、胡散臭い世辞の言葉を発する時にもれるタバコの匂いとか。――学校ですら安心できる場ではなかったな。とふと視線を下げた。いつも俺の肩書きばかりを見てきた人。生徒のためと言いながら、本当は自分の昇格ばかりを考える狡猾な人間。……挙げればきりがないけれど、そのせり出した腹の中はきっとヤニとビールと欲が凝り固まって、収まりきらなくてせり出してしまったのだろう。

――ああ、でもこんなのが普通の人間としてカテゴライズされるのかもな。

貪欲で自己中心的で、浅はか。

生身の人間はそんなドロドロした思いを身内に溜め込んで、時折ギラリと瞳を輝かせる。
図々しくて、それでいて小心者。
野心に身を燃やしているのに、それを悟られるのが恐い。
けれどそのドロリとした熱が行き場を探して、そして目の色が鈍く光る。

純粋、とかけ離れた世界。

何度目になるか解らない世辞の言葉に、嫌気を通り越して呆れを覚える。
そっと相手に悟られないようにため息をついた。

……そう、ここが俺の世界。
春の優しい空の色や曖昧な温かな陽射しの世界は、ここにはない。

彼女は居ない。

居ないのだと、心が急速に冷えていく。

臆病で狡猾で自己中心的で、浅はか。
――ああ、俺のことじゃないか。

なぁんだ。俺はもうとっくにこちらの世界の住人じゃないか。

自嘲的な笑みを浮かべて、永遠と続く世辞の言葉を聞き流していると、やがて廊下からドタドタと強い足音が響いてきた。それは幾つか重なり合い、そして女子の甲高い悲鳴を伴った。何事かと職員室内がざわつき始め、扉の近くにいた教員が戸口に手をかけた瞬間、青ざめた生徒が走りこんできた。
何事だと野太い怒声が部屋に響いた。
その声に一瞬生徒が怯み、じわりと目に涙を溜め込んだ。
そしてヒステリックに叫んだ。

「女の、女子生徒が廊下で倒れていますっ!」

血が、血がと喚くように叫ぶ。そして早く早くとも。

その瞬間、俺は走り出していた。 背後で誰かが怒鳴っている。けれど俺はわき目も振らず、戸口で喚くその生徒を乱暴に退けて廊下へ出た。
ひやりと冷たい空気に包まれる。
飛び出したその先に、誰かと泣き叫ぶ生徒がいた。

その生徒の足元にごろりと人が倒れていた。
俺は一瞬にして血の気が引くのを感じた。

さん……――っ!!」

彼女に駆け寄ると、彼女はぐったりと倒れこみ、真っ赤な血をたくさん……

たくさんの血が出ていた。







お砂糖とミルクとアイロニーと







「落ち着いて。倒れる時に額を擦りむいて、鼻をぶつけて鼻血が出ただけよ。――鼻骨も折れていないようだし」

だから安心なさい。
校医は困ったように眉を寄せて、ベッドに横たわる彼女の額を撫でた。
彼女の額にはガーゼが当てられていて、鼻血は幾分か前に落ち着いていた。
――けれど瞼を閉じる彼女は未だに青ざめていて、俺はまるで生きた心地がしなかった。

あの時、彼女が倒れているのを見た時、ひやりと心臓が一瞬、止まった。呼吸も止まって、世界がグニャリと歪んだ。足元が崩れ落ちる音を確かに俺は聴いた。そしてもつれながら彼女の元に駆け寄り、その血溜まりに目の前が真っ暗になった。

そして彼女の名を何度も何度も叫び、呼んだ。
けれどさんはビクともせず、俺は壊れたレコーダーみたいに名前を叫び続けた。
その時、俺は圧倒的に無力だった。

抱き寄せたいのに、手が震えて。
揺すって起こしたいのに、腕がだらりと力が入らなかった。

そうこうしている内に校医が慌てた様子で駆け寄ってきて、てきぱきと応急処置を始め、そしていつの間にか跪いた俺の隣に体育教師がいて、その人にさんは抱きかかえられて、保健室へと連れて行かれた。――その一連の流れを俺は呆然と眺めていた。

「ほら保健室に行くわよ」

処置の片付けを終えた校医が、ポンと肩を叩いた。その手の温かさにふと我に返った。

「急いで」

小走りに廊下をかける後姿を俺は力の入らない脚を叱咤して追いかけた。



*



「……先生。彼女は、さんはどこか悪いんですか?」

情けないほど声が震えている。縋るような視線を向けると、校医は意味を取りかねて訝しげな視線を向けていた。

「前にも、倒れたんです。夏の日に、顔を真っ青にしてたくさん汗をかいて、苦しそうにしていたのに救急車は呼ぶなって。そしてふって意識が…!」

あの日を思い出すだけで、心臓や胃が痛くなる。あの時もどうする事も出来なくて、自分が着ていたシャツを彼女にかけてやる事しか出来なかった。

「夏休みの間、会う度にさん痩せていってて……でも何でもないって笑うんです。――何でもないって言ったのに倒れたんです…っ!」

あの時も今も、彼女は真っ白な顔で眠りについている。微かに聞こえる息の音が、彼女の存在を確かにしている。
――俺は震える手で彼女の頬を撫でた。冷やりとした柔らかい感触が、愛しくて悲しい。
このごちゃごちゃな気持ちを言葉にする術を俺は知らない。
悔しくて、鼻腔の奥がツンとした。じわりと視界が滲んできて、唇を強く噛んで堪えた。

ふと両肩が温かいことに気づいた。横に視線を向けると手が乗せられていた。視線を上に向けると、校医はふんわりと微笑っていた。

大丈夫よ、と。

「郭くんは、さんとお付き合いしているの…?」
「いいえ、今は……」
「今はって事は、前にお付き合いしてたということ?」

こくりと頷くと、校医はまた眉をひそめた。

「…いつまでって訊いてもいいかしら?」
「夏の間です。秋の前まで」

校医はそうと何か考え込む風情だった。

「…やっぱりどこか悪いんですか?」
「いいえ、そうじゃないわ。――多分、成長期にありがちな貧血よ。彼女は元々そんなに丈夫な方ではないようだし、きっと色々疲れているんだと思うわ」

だから安心なさい。そう言って校医は笑った。
でも、と言葉を返そうとすると、横になっている彼女が身じろいだ。
そして徐に瞼がゆっくりと開いていって、そして状況が飲み込めていないのか、瞳はぼんやりとしていた。そして何回か瞬きをして、仰向けだった首をゆっくりと横に傾けた。

「ここ、は…?郭くん…なんで?」

彼女はぼんやりとしていたけれど、俺の存在は理解しているようだ。その事に安堵する自分がいた。

「郭くん…?」

彼女は布団のすそから徐に手を出してきた。俺はその手を両手でしっかりと握り締めた。

「――ここにいるから。ここ、保健室。さん倒れたんだよ、覚えてる?」

保健室。彼女は口の中で転がした。その焦点は未だにぼんやりと定まっていないようだ。

さん、どこか痛い?気持ち悪い?」

様子を見守っていた校医がさんに呼びかける。
彼女はぼんやりと視線を漂わせ、眠りと目覚めの世界を行き来していた。

「頭を廊下に打っちゃったのよ。グラグラしたり気持ち悪かったりしたら言ってね」

さんは少し考えた風情で、ふとその眉をひそめた。

「気持ち悪くは、無いです…ぼんやりします。ちょっと…グラグラも」
「――ああ、鼻血だしたからね。貧血で倒れたし」
「私、鼻血出したんですか…?」

その言葉に彼女はようやく覚醒した。

「ええ。もう気前よくドバーッと出してたわよ。あんまりにも気前が良すぎて通りかけの女の子がギャアギャア騒いで、そりゃあもう大変だったわよ」
「恥ずかし…」
「そんな事言えるんだから、大丈夫ね」

校医はやれやれとため息をついた。

「――そういえば、お家に電話をかけてるんだけど何回も留守電になっちゃうのよ」

さんは少し考えた風情で、あっと声をあげた。

「今、親が旅行に行ってます」
「国内?」
「…いいえ、海外に」
「あら豪勢ね。でも困ったわ…」
「はい、私が、大学決まったから、お祝いに二人で」
「…主役を置いて?」
「…大学お金かかるから、留守番ねって」
「陽気なご両親ね」
「頭の中は常夏で茹ってます」

校医と俺は思わず噴出した。

「今、ハワイなんで脳みそドロドロですよ」

彼女もふふっと微笑んだ。

「…ああでも困ったわ。ご家族の方他にいらっしゃらない?」
「兄が…います」
「ご自宅に?」
「…いえ、彼女と同棲してます」
「あなたのご家族凄いわね」
「頭の中がお花畑なんです、みんな」

校医は耐え切れないようで声を上げて笑い出した。その陰で俺は唇を噛み締めて堪えた。

「…お兄さんに電話したら繋がるかしら?」
「ええ、多分繋がります」

彼女は淀みなくお兄さんの携帯番号を空で伝えた。
コール音中、校医は覚えてるなんて凄いわねと笑うと、彼女は曖昧に微笑んだ。
何コール目かで通話になった。そして校医はスラスラと学校名と名前と用件を伝えると、受話器越しだというのに彼女のお兄さんの声がこちらまで聞こえてきた。

「うちのの頭が悪いんでしょうかっ?!――ああもう、万年新婚バカを呼び戻さないと…じゃなくてすぐにそちらに向かいます」
「…ご両親にお伝え願いますか?それで、お戻りになるかならないかは、そちらでお決めいただいて」

慌てて事故を起こさないで下さいね、という言葉で校医は電話を切った。ややあって、また声をあげて笑った。 彼女は恥ずかしそうに、すこし拗ねていた。

「ああ、ごめんなさいね。…でも本当に面白いご家族ね」

彼女のその拗ねている姿が、年相応で。
なんだか、生身の人間で、俺はふと安心して嘆息した。

「――さぁ郭くんちょっとあなた席を外して頂戴」

校医はまだ可笑しそうに笑っている。

「心配でずぅっと手を繋いでいたいのは解らなくもないけど、さんも着替えないといけないの」

景気よく鼻血を出したからね。シャツの襟が汚れちゃったのよ。

校医はにこにこと俺たちに笑みを向けた。――否、にやにやと。
気づけばあれから俺たちは無意識に手を繋ぎ続けて、離さなかった。
その事にはたと気づいて、頬が一気に熱くなった。否、頬以外も熱い。
彼女も驚いた様子で、あんなに青ざめていた頬が赤く染まっていた。

「あらあら。…若いっていいわね」

校医のその言葉に、ますます熱くなるのを感じた。





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