これだ、という確証の無いまま君は笑う












飛行機雲は君を通り抜けていく

アフターイメージ










人を傷つけるなんて、とても簡単だ。
人を幸せにすることより、何倍も何十倍も。


けれど、俺の場合傷つけたくて傷つけたわけではない。――これはあくまでも俺の主張だ。 それがよかれとして行ったとしても、相手がどう受け取るかは相手側にかかっている。 長い間柵にかけてきたあの人を解き放とうとして、その実俺はあの人をそっと確実に突き落とした。何かを我慢させるのが不憫なほどあの人は、自由で、奔放で、マイペ−スだった。
解っていながらも、手を離すのが怖くて、惜しかった。
長かったあの道のりを、思い出にしようと決意したのは自分、あの人を違う意味で幸せにしようと決意したのも自分。すべてが自分の決意で、意思で、自己欺瞞だった。すべてが、すべてがいとおしくて、大切だから。





別れよう、と言葉にした。





「郭くん、そっちの整理終わった?」


さんはひょっと本棚の影から顔を覗かせた。


「まだ、三つの山が残ってるよ」


ふ、とため息を漏らして足元に視線をやる。
足元に無造作に積み上げられたのは本の山。古いもの新しいものがごちゃ混ぜ状態。今日の仕事はひたすら書籍番号順に本を並べていく。――とても単純な作業だ、自然と考え事をしてしまう。
彼女は俺の足元に視線を向け、珍しそうに声をあげる。


「あらら。じゃあ、もう少しで終わるからそっち手伝うね」


そしてにこりと微笑を傾ける。


「ありがとう」


大きな窓から入り込む夏の陽光は、机を照らし、本を照らし、埃焼けをさせ、そして俺の鼻元に本の古びたにおいを運ばせる。そっと踵を返す彼女を照らす頃には、もうまろやかなひかりとなって彼女の微笑を照らし出す。


あの人の笑顔といえば、破顔そのものだった。
大らかに笑い、よく声をあげて笑い、華やかそのものだ。


『嫌よ、嫌!!』


凛とした眼差しが突き刺さるほど熱かった、あの日。
彼女を地に落とし、自分を欺き、それでもあの人のことが好きなんだ、と自覚した。


「郭くん?」


いつの間にかさんは隣に居て、不思議そうな目で俺を窺っていた。小首をかしげていて、彼女のセミロングの髪がさらさらと音をたてるように肩を滑っていく。


俺はいいや、と言ってかぶりを振った。


「何でもない、んだ」


「そう?」


「…うん。最近暑いしね、疲れてるかも」


「そうだね」


彼女は何かを噛み締めたように、また微笑んだ。


「それじゃあ、始めようか」


そう言って何冊か無造作に抱えて彼女は仕事を始めた。俺はぼんやりしながら、目に付いた本を手に取った。暫く無言のまま作業は続けられ、俺の頭は考え事をしているのか、していないのか、頭の中がとても濃い霧がかかっているようだった。
前も後ろも、過去も未来も。何も見えない場所に立たされているような……


「…っ!」


その感覚に目が覚まされるようだった。
どうやら紙で指を切ってしまったようだ。あまりにビックリして思わず本を落としてしまって、ドサッと仰々しく音をたてた。


「どうしたの?あっ、血が…!」


さんは驚いたように、駆け寄りおもむろに自分のポケットの中に手を突っ込んだ。


「これで暫く抑えてて。かばんの中に絆創膏が入ってるはずだから」


彼女はハンカチを俺の指にそっと軽く巻きつけ、少し待っててと言って荷物を置いてあるカウンタ−まで急ぎ足で駆けて行った。左の人差し指に当てた彼女のきれいなハンカチが、血を見る見るうちに吸い込んでいく。
綿の少しざらついた感触が、何故だか不思議に心地よかった。
そうこうする内に彼女は少しだけ息を弾ませて戻ってきた。


「大丈夫?絆創膏あったんだけど…指を見せて?」


彼女は当てたハンカチをめくり、傷の具合を確認した。
その時、ドキリと心臓が不意に高鳴った。
包み込むように添えられた、小さな手。細い指。そしてその冷たさ。
覗きこむ、彼女のまつげの長さ……


「結構深く切ったね。指洗ってから絆創膏しようか?」


そう言って腕をひっぱる強さ。


俺は何も言えず、ただ従うだけだった。
図書館という施設は、“図書館”という施設だけではない。図書館という扉を閉じて、向かい側にあるのが、司書の先生の控え室にその隣に給湯室、少し置くに行けば手洗いがある。階段を上れば、小さな会議室がいくつかある。その2階のフロア――会議室を含め――は図書委員の特権として使える、らしい。前に彼女がそっと教えてくれた。司書の先生が黙認しているからこそ、だと。


彼女は2階にある、1階よりも小さな給湯室に連れて来させた。はじめて見た2階というフロア−全体はとても綺麗だった。蛍光灯をつけると真っ黒だった給湯室が突然顕わになった。小さな冷蔵庫、湯沸かし器、流し場。2人いればもう一杯になるそこは、学校という場所にそぐわないほど綺麗で、もったいないほどだった。


「少し沁みるけど、我慢してね」


彼女はゆっくりと蛇口を捻り、水が直接傷口に当たらないように自分の手をかざして洗う。サッカ−をしていれば傷はつき物だ。そう思ってはいたけれど、予想以上に傷は痛んだ。それを見透かしたように彼女は微笑った。


「予想以上に痛いでしょ?紙で手を切ると結構地味に痛いんだよね。それにさっき郭くんが切った本の紙って結構厚いのだから相当痛いと思うけど?」


「うん。結構地味に痛いね」


少しだけ奥歯を噛み締めて、笑ってみせた。――そう、自分では笑ってみせたつもりだ。けれど彼女は少し苦々しい顔をして、蛇口を捻り、そしてハンカチで水気を拭ってくれた。洗い終えた後ほんの暫くは血が滲むことはなかったけど、ややあって血がじわりと滲み始めた。


「少し小さめの絆創膏だから関節の所には当たらないと思うんだけど……」


その絆創膏はどうやら消毒液つきのようだ。傷口に当てられるとヒヤりとした感触と、少しだけ傷が痛んだ。


「ありがとう」


「これで大丈夫だと思うけど、家に帰ったら新しいのに替えてね」


さんって絆創膏持ち歩いてるんだね?」


そう言うと、彼女は少し恥じ入ったように俯いた。


「実は私もよく紙で手を切っちゃうの。だから絆創膏を持ち歩いてるんだ」


「へぇ〜」


だから手際がいいんだ、と感心した。


「いつも自分用として持ち歩いてたけど、今日は持ってて良かった」


「その恩恵を受けたわけだ、俺は」


「そういうこと!」


彼女はにこりと破顔して、そうだと思い出だしたように冷蔵庫を開いた。


「実はね、これ、司書の先生から貰ったの」


おもむろに差し出されたのは、なんて事のない缶ジュ−スだった。


「突然頼んだお詫びだって」


本当は今日、司書の先生1人が仕事をする日だった。けれど急用が出来て、たまたま居合わせたさんに頼んだ、という経緯。帰り際、1人図書館に向かう彼女を見つけて、俺も手伝うことになった。


缶ジュ−スは2本あった。けれど彼女は1人でこなそうとしていた。


「そう言えばもうそろそろお昼時だね。まだまだ終わりそうにもないし、ご飯食べようか?…あっ、でも郭くんサッカ−ある?」


「今日はなにもないよ。明日から練習が始まるんだ」


「へぇ〜」


彼女は嬉しそうに微笑んだ。
何故だかその笑顔はとても心に響いた。報われたとも言うべきか。


「それじゃあ買いにいこうか」


「そうだね」


「私、お財布取って来るね。郭くんは…持ってるね」


ズボンの後ろポケットに財布が入っているのを確認して、少し待っててと彼女は階段を降りていった。 階段部分をゆったりと囲むように吹抜けになっていて、こちらから下の階は筒抜けになっている。軽やかに螺旋階段調の階段を降りていく彼女。ふわりとスカ−トが円を描き、上から差し込む陽光がキラキラと燐粉のように彼女を取り囲んだ。パタパタと軽い足音を響かせ、髪をさらさらと揺らす。階段を最後まで下りると、ふと彼女は笑みを湛えながら見上げてきた。


「その手前の会議室の空調をつけておいてね!」


「…わ、かった」


どぎまぎした俺を知ってか知らずか、彼女はそのまま図書館へと入っていった。
見上げた笑顔は光りをいっぱいに浴びて、眩しかった。
そして彼女の言われた通りにその会議室のドアを開けるとむせるような熱気が立ち籠めた。 電源をつけ、空調の電源を探すと難なく見つかり、ざっと当たりを見回すとあまり人の入りが少ないのか、比較的新しくて、綺麗な大きな楕円形の机とデスクチェア−がその机の周りを囲んでいた。そしてその部屋から出ようとドアノブに手をかけようとすると、その手に彼女のハンカチが握られていた。握り締めたハンカチを広げると点々と血痕がついていた。ほんの少しそれを凝視して、折り畳んでポケットにしまい込んだ。


そして階段を下りると、彼女は図書館の入り口にプレ−トを下げていた。


「何してるの?」


「休館日だけど、一応ね」


そのプレ−トにはゴシック体でclosedと大きく書かれていた。


「さ、よし!買いに行きますか」


「そうだね。購買部は今日開いてないんだよね」


「終業式だからね〜」


「少し歩くけどコンビニにする?」


「うん。そうしよう」


一歩、外へ出るとジリジリとした暑さがどっと去来した。 彼女は思わずうっと呻き、眩しそうに空を見上げた。


「あっついね〜」


「今まで涼しいところに居たから余計にね」


出来るだけ木陰を選んで歩きながら、 何を食べようか、アイス食べたいとか、この暑さで溶けそうだとか。 彼女はいつもと変わらず明るく話し続ける。
いつもとは明らかに行動がおかしい俺にあえて何かあったのか、とは彼女は尋ねなかった。 ――その優しさが心の弱まったところに突かれるように響いた。


コンビニに入る前、振り向きざまに空を見上げた。
そこにはまっすぐとのびた白い飛行機雲が、冴える青いキャンパスの上に描かれていた。


「どうしたの?」


先に店内に入った彼女は、不思議そうに俺を振り返った。


「なんでもない……」


そう言って店内に入ると、火照った体に嬉しいぐらいの冷気が店内に満ちていた。
涼しい、と至極嬉しそうに彼女は笑った。 そうだね、と言うとさらに満面の笑みを浮かべた。


「なぁに食べよっかな〜」


冷房の音が、周りの世界を流していく。。。
その笑顔が、 あの人の笑顔と少しだけ被ってみえた。
















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図書館の構造は高校の図書館(私の学校では記念館と言っていたのですが)を参考にしましたが、結構自分が良いように変えました(笑)何だかんだで、3話書いてしまいましたね。そしていつ終わらせられるのか自分でも予測不能になってきました(−−;)