逃げちゃダメだよ。
心の中で、色んな感情が暴れだしそうだった






寄り道逃げ道、さようなら
アフターイメージ






雲をつかむ。と言ったらいいんだろうか……
漠然として、もやもやして。自分の事なのに、まるで自分の事として捕らえることが出来なかった。



それは夏休みを目前と控えていた時期の頃。

外は蒸し暑くうだるような暑さの中、ピシッとサマースーツを着ている中年の男性が、俺の目の前の革張りのソファーに腰掛けていた。その男性の座るソファーの横には、幾分か若い男性が一人付き添って立っていた。



「おめでとう、郭英士くん」

隣で付き添っていた、長年の付き合いのコーチが笑った。チーム関係者の人たちも微笑んでいる。

「あ…ありがとうございます」

俺はまるで機械のように礼を述べた。…呆気にとられたというのかな。



今まで目指してきた事が、達成された。
とても大きく、儚くさえ思えた夢。
諦めたくない。実現させたい。

弱音を吐きそうになるのを堪えて、辛く忙しい日々に没頭し続けた。



おめでとう。
おめでとう。



周りの大人たちは嬉しそうに笑っている。



おめでとう。
おめでとう。



小さな頃から夢見てきたものは、サッとさも当たり前のように現れた。



…この薄っぺらい紙切れとして。



サインを済ますと、チームの関係者が手を差し伸べてきた。――握手だ。



「おめでとう、郭くん。これで君もプロのサッカー選手だ」

「ありがとうございます」

「高校を卒業してからプロになるわけだけど……」

俺はにこりと微笑んで立ち上がり、関係者が差し出した手を握った。

「これからよろしくお願いします」

「こちらこそ。…後数ヶ月の高校生活を満喫してくれたまえ」

「はい」

「多分、君にとって最後の学生生活になるだろうね」

それにはただ会釈だけした。そして俺は関係者の手を離し、ドアへと向かう一行をその場で見送った。
契約は、あっけないほど事務的に進んだ。

一行が出て行った後、この会議室というべきか重厚な部屋にポツリと残され、ふとため息を漏らした。 コーチはチーム関係者を見送ってから戻ってくるだろう。そして帰ってきてコーチはこういうだろう。

『おめでとう郭!よくやったな。小さい頃からのお前の夢が叶って!後は若菜だな。でも大丈夫。若菜にもいくつかオファーが来てる。本人と相談しながら決めていくよ。これで3人全員決まったら、お祝いだな!』

多分こう言うだろうと思うと、なんだか可笑しかった。
この重厚で無機質な会議室に、俺の小さくくぐもった笑い声がこだまする。そして一頻り笑い終えると、次にすべきことを考えた。
まず、一馬と結人に連絡を入れてから、家に連絡しよう。それから学校の担任に連絡して……

それから……

とうとうこの時が、やってきたんだ。
プロになりたいという夢が叶った。今日はその夢への着実な一歩だ。 その夢への一歩を踏むたびに、一歩ずつ引いていかなければならない道がある。

俺は思わずため息をついた。

こんなに喜ばしい日に、こんなにも喜べない自分がいる。長年夢を叶えようと、努力を惜しまずしてきた…と自分でも評価できるのに。この夢を叶えられたのは『妥当だ』とも、嘲られる。
けれど、その根本にある感情は『喜び』という胸躍らす、躍動感のようなもの。なのに、俺は正直に喜べない。なぜなら…

ジージーと、あの携帯特有のバイブの音が、空虚な会議室に響き渡った。 俺は足元においてあったかばんの中から、携帯を取り出した。…契約中にならなかったのが、かなりの救いだ。

誰だろうと、携帯を開くと『前谷衿子』とディスプレイに表示されていた。どうやらメールではないらしく、着信中と表示されて携帯がブルブルと震え続ける。俺はため息をこぼし、通話ボタンを押した。

「もしもし、何衿子?」

その声が部屋に響く。

『もしもし英士?』

「うん何?」

『うん…あのさ……』

「うん?」

『…ううん、いいや。わかったし』

「は?何が?」

『ううん、いいの』

「…変な衿子」

彼女は受話器越しにくすくすと笑った。その笑い声が、耳にくすぐったかった。

『おめでとう、英士』

「…ありがとう」

どうやら衿子は、なにも言わなくてもわかったみたいだ。
…エスパーみたいだ、と正直思った。

「よくわかったね」

『…だって4年の付き合いだよ?英士が言わなくてもわかりますよ〜。それに大体大丈夫だろうって思ったし』

衿子はまたくすくすと笑った。

『よかったね、英士』

「…うん、ありがとう」

『よかったね〜あたしドキドキしちゃったぁ!』

本当に安堵した様子の衿子の声に、今度は俺が笑ってしまった。

「衿子は心配性なんだよ」

『心配するに越したことはないでしょう!それよりどこのチームになった?』

俺は思わず、その言葉にひやりとさせられた。

「うん…まぁ、今度話すよ」

それには衿子が不服そうに電話口でえ〜、と怒鳴った。…これ以上話すのはやばいと思って、それじゃあ、と言って早々と電話を切った。

切り終えた後、緊張してたのか思わず安堵のため息がもれた。少しだけ鼓動が速くなっているみたいだ。俺は落ち着かせるためにも、テーブルにおいてある冷めたお茶をすすった。一口含んで、その苦さに眉をひそめていると、廊下から誰かの足音が近づいて来た。

コーチだろうと思っていたら、案の定会議室のドアを開けたのは、コーチだった。
そして思ったとおり嬉しそうにしていて、思ったとおりの言葉で賛辞を述べた。

そう、大抵思った通りなんだ。

それが俺にとって都合がいいか、悪いかなんてちっぽけな都合に合わないだけで、そういう風に事が進んでいく。

――だから……

たとえ良くても、悪くても伝えなければいけない。

それが良いと断言できるなら、それをするに越したことはない。



ゴメン、衿子。

俺の心は、一瞬にして罪悪感に染まり、けれど悲しいかなコーチと一緒に喜び合ってしまった……



*
*
*



帰り道、まず結人に電話すると、思ったとおり嬉しそうに声を張り上げた。
…電話越しに大音量の結人の声は、耳が痛かったけど自分の事で喜んでもらってるから文句は言えなかった。結人に電話した時、ちょうど一馬がいた――というか二人で待機していたみたいだった――ので、一馬からもお祝いの言葉をもらった。一馬と話している時、結人が「決まってないの俺だけかぁ!」と喚いているのが聞こえて、一馬と二人で笑った。

今度会うことを約束して電話を切り、今度は自宅に電話を入れた。

2コールほどで、母親の切羽詰まった「郭です」という声が聞こえた。そのあまりに切羽詰った様子が可笑しくて、思わず笑ってしまった。母親は心外だといわんばかりに「どうだった?」と少し怒った様子で尋ねてきた。決まったことを告げると、一転母親の声は涙ぐんできた。

今度は、後ろで待ち構えていたのか父親がすかさず替わって電話に出てきた。また興奮した様子でどうだったどうだったと尋ねてきた。また俺は母親と同じことを伝えると、そうかと至極安堵した様子で、他の家族に大声で『決まったぞ』と電話を離して叫んでいるようだった。電話口から他の家族が喜んでいる様子が伝わってきた。

これ以上話しても、大声で叫ばれるだろうと思って、すぐ帰ると伝えて電話を切った。

電話を切り終えて、韓国のアイツのことがパッと頭に浮かんだけれど、それは家に帰ってからでも良いだろうと思った。後、担任も。

ふぅと、今日何度目かのため息をついて、制服のズボンのポケットに携帯をしまおうと思った瞬間、とある人物がふと頭に浮かんだ。



自分でも、何故その人が思い浮かんだのか不思議でたまらなかった。



…まぁ、しいて言えば学校の中では親しい方だけれど。
話しやすいといえば、話しやすい。それに頭の回転が速く機転が利いていて、着眼点も人とは少し違って面白い。けれど人のプライバシーに介入するような質問をしない。

心地よい、距離を作る人。

だからと言って、そんなには親しくもないし、話す必要性が有るか無いかと問われれば、無いほうだろう。

変なの……

実は自分でも思いつかないほど興奮しているのかな?と自分に良い様に解釈して、ポケットに携帯をしまいこんだ。

けれどどこか釈然としなくて、胸の中がむずむずして不快だったが、ここで俺が電話しても不自然だと自分に言い聞かせて、帰りの駅に向かった。



そう、俺にはやるべきことがある。
――衿子に伝えないといけないことがある……

そう思うと、胸がギュと痛み始めた。





そしてしばらくあの時どうしてさんのことが、思い浮かんだのか釈然としないまま、忘れてしまっていた。







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契約っていつ行われるのでしょう?話の設定で夏にさせてもらいましたが……
ヨンササイドのお話。少しずつ進展がみられた今日この頃…(-V-;)