木製の、使い込まれた机の一番下。
滅多に使わないその引き出しには鍵がかけられている。
静寂に包まれた部屋の中、思い出深くレースのカーテンがさつきの風に波を打つ。

かの人が愛したローズウッドの甘く清涼な香りが、思いを馳せるたびに記憶の嗅覚に香る。
掌にあるのは、酷く華奢なつくりの鍵。冷たく鈍い光が、まるでせせら笑うかに映る。

この引き出しを開けていたら、変わっていただろうか。
世界が、嘲笑ではなく微笑を向けてくれただろうか。

机の木目にそっと手を合わせば、インクで滲んだ痕と引っかき傷が所々あった。綺麗に使い込まれていても、何年も使っていれば気づかないうちに生活の傷が出来る。そっと手袋越しに触れた傷は、布越しのせいかひどくあやふやだ。視線を追えばそこに傷があるのに、触れるとその些細な傷を感じない。

――なるほど人とはこういうものなのか。
表面上に反映しない掻き傷を心に負って、人は明日へと笑うのだ。触れてもひどく些細で曖昧。だからこそ己でさえ気づかず、まして他人には解るわけがない。そうやって苦しみを抱えながら、歩いていかなければならない。――大人になるという義務を生まれた時から背負っているせいで。一人残らず、生まれた時から等しく。まなかいにある道を進め。……誰だか解らない、本能に訴えて理性を律する声に導かれるように。
さなぎから成虫に。子どもからおとなへ。


幸せな過去から、空虚な未来へ。







レゾナンス
resonance









黄金色の紅茶から、芳しい香りが広がる。その香りに年若い主はスンと可愛らしく吸い込んで楽しんでいた。

「ちょうど喉が渇いていたの」

弾む声や待ち構えているその姿が、まだまだ幼さを映してなんとも可愛らしい。くすりと口元により深く笑みを浮かべると、年若い主はまだ?とせがんで来た。

「お待たせしました」

主の前に差し出すと、待っていましたといわんばかりにすぐさまカップを持ち上げ口をつけた。そしてその白く華奢な喉元がコクリと音を立てて、しばらくしてカップから口を離した。

「…やっぱり美味しい!」

そう純真に瞳を輝かせる彼女はまだほやほやのお嬢様だ。
御年は17歳。少女と女性の表情を交互に見せる、やはりまだ少女の自由で快活な人だ。いままで平穏に暮らしてきただろう彼女は、とまどいながらも懸命にこの生活に馴染もうとしている。それというのも、彼女のお姉様の夏実様が九条院財閥の慎一郎様とご結婚されるからだ。お嬢様と夏実様お二方のご両親は既に亡くなられ、夏実様がお嬢様の親代わりだったのだ。…過去形はおかしい。これからは慎一郎様もお嬢様の親代わりになるのだ。いや、これもおかしい。もう既にお三方はご家族であって、ただ旦那様と奥様の挙式と披露宴がまだなだけ。これはお家やビジネスでのお付き合いしている方々の都合があわず、なかなか日取りが定まらなかったせいだ。その日には名だたる著名人を迎え、その式は大層大掛かりなものになる。……その式をこの年若い主は心待ちにして、そして少し怯えている様に感じられる。

「ねぇ、中岡さん。礼儀作法って難しいのね」

お嬢様は独り言を呟くように、コトリとカップをソーサーに戻す。
その背中は元々小さいのに、より一層か弱げに小さく見えた。
そこが薄く見えるカップに紅茶を注ぐ。

「…最近のお嬢様のご成長ぶりは、私が一番に存じ上げています」

新たに注がれた紅茶から芳しい湯気が立ちのぼり、そしてお嬢様の頬が見る見るうちに染められた。

「本当?」

はいと笑うとお嬢様は、嬉しそうに瞳を輝かせ、ありがとう頑張ると意気込まれた。なんとも微笑ましいお姿だ。
私は――俺はお嬢様の教育係にと専属に付けられた執事だ。お嬢様が立派な淑女にご成長されるようにと、執事長の樫原さんに指名された。旦那様も執事長の樫原さんに絶大な信頼を置いていて、「可愛い義妹をよろしく」と直々にお言葉を頂いた。10歳近く年の離れているお嬢様は、まるで年の離れた妹のようで、旦那様と同様に可愛く思う。今まで知らなかった知識を得たり作法を知り、それを理解した時できた時。そんな些細な瞬間、お嬢様はすごく喜ばれるのだ。その喜びは直ぐに俺にもうつり、自分の事のように嬉しく感じる。

俺はただこの可愛らしいお嬢様がお健やかにご成長される事を心からお祈りする。

――自分の犯した過ちをこの綺麗な瞳をした彼女が犯さないよう、俺は見守り続ける所存だ。






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