思い出すのはふとしたとき。
お嬢様がそうとカップに手を伸ばした時。その小さな指が見えた時。

――ああそうだ、確かにこんな感じだった。
懐かしい感覚が蘇る。
その震えてしまいそうな白い手は、シルバーのすっきりとした輝きがよく似合う。――よく似合っていた。ただ本をめくるのでさえ、玲瓏な音色を奏でるかに美しかった。その人はもう無意識に指先まで神経をこらす。美しく揃えられた指は、決して形がいいと手放しに褒める事はできないけれど、ピンと無意識にはられた神経が、その弱点を大いに補った。清潔に揃えられた爪先が厚手の本をめくる。
レポート用紙にペンを滑らせていた俺は、目の前にある一連の流れをぼんやり眺めていた。そして目の前の指先がピタリととまった。俺はハッと息をつめて、顔を上げた。向かい側にあるその人はまるであきれていて、なにと首をかしげた。かしげた拍子にその人の髪が肩を透明な音ですべる。

ほんのりと春の日差しが差し込む部屋。
思い出すその場面は、光に包まれて甘く幸福に溶けていく。――けれど思い出すたびに、その場面は嫌がおうにも過去になり、光に包まれ背景や風景の輪郭がぼやけていく。

その人の顔さえも――……







レゾナンス
resonance









「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」

夜、お嬢様に退出の礼をしてドアを閉じる。完全に閉じたのを確認してから、軽く息を吐き出す。 ――今日も一日が終わった。…正確にはまだこれから執事達のミーティングがあるが、大方終わったに等しい。廊下を歩き出せばコツコツと静寂な世界に己の存在を誇示するかに鳴り響く。足音を立てて歩いているつもりは無いけれど、こんなにも静かであれば当然のことだ。所々ひと気を感じるが、まるで闇にひっそりと息を潜めているみたいで、姿が見えない。
廊下の窓から空を見上げると、月も闇に紛れて姿を現さない。
……新月か。ふとため息がこぼれた。
何となく身体の中にも新月の夜と同じ、もやもやと重いものを感じる。シコリのようで、でも形はなく。けれど鉛のように重い。またため息がこぼれた。――ああそういえば、しばらく休みを頂いていなかったな。疲れているのか、誰に言うわけでなく口の中で呟いた。

お嬢様の専属執事と仰せつかって、少しは経つ。お嬢様もこの生活に徐々に慣れ始め、作法も態度もお嬢様としての風格がついてきている。そして喜ばしいのが、元もと天真爛漫なのであろう明朗さがいたる所で輝き始めた。少し前まではお茶を飲むのも緊張している風にお見かけしたが、最近はゆったりとリラックスされ、お食事も味を楽しまれるほど慣れてきたご様子。
――まるでひな鳥の成長を見守る親鳥の気分だ。わが子の成長に一喜一憂する親の。
少し前までの、懸命によちよち歩きでついてくるその姿が可愛らしかった。そして同時に危惧していた。 ――このままではいけないと。
確かにお嬢様にとって不慣れな場で専属執事である俺の存在は大きいだろう。それゆえに助けを求めやすい。――手を貸し、間違いがないよう注意するのは執事である俺の仕事だ。けれどお嬢様のその姿に、『すがる』という甘えが見えたのも確かだ。そこに俺は危ういものを感じていた。お嬢様と執事は同じ人間であれど、身分は違う。お嬢様は今まで身分というものを感じる必要が無い世界にいらした。それゆえに線引きができないのであろう、一線を越えて近づこうとしてきた。主人と使用人。その境目は交わることなく、明確な線がひかれている。

ここは九条院家だ。そしてお嬢様は、世に名高い九条院財閥のご令嬢である。
身分に頓着をして、わきまえないといけない世界なのだ。ここは。

お嬢様のご成長に明るい展望が見えてきたが、やはり懸念しなければならない所も多々ある。
俺はしばらく目を凝らし、お嬢様に間違いがないよう見守り続ける必要がある。――聡い方だ。そう遠くない日、お気づきになるだろう。……だからそれまでは。

「…休みはなしか」

静寂な新月の夜に溜息がポツリと滲んで、消えた。






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